★シリーズ 高岡中の歴史 31-11
令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その31】-11 *高岡中学校開校27年目 昭和48年度(1973年〜1974年) 校長:森田 校長(第7代) 生徒数:1,010人(男子:513人 女子:497人) 教員数:42人 ▶ 学校のうごき ・4月 森田 氏 第7代校長に就任 ・5月 写生大会(午前)・陸上記録会(午後)、心電図測定 ・6月 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年)、県教委体育指導訪問 ・7月 プール竣工・プール開き *教育大生4名模範泳法 西三大会ハンドボール会場(本校) ・8月 キャンプ(2年:夕森)、蛍光灯工事(4,5棟) ・10月 市陸上大会(トヨタ自工グラウンド) 遠足 *1年:洲原池、2年:祐福寺、3年:三好池 海外研修派遣・石川巖教諭、体育倉庫内壁修理 ・11月 市長距離継走大会・男女優勝 ・12月 初代加藤倉次郎校長叙勲祝賀会 ・3月 卒業記念除幕式(校門付近石垣) ▶ 地域のうつりかわり ・4月 竜神中学校が新設開校 *約250名が転校 全国各地から豊田市へ集団就職 4,071人 ・6月 高橋公民館オープン ・7月 市とトヨタ自工が公害防止協定締結 老人福祉電話開設 ・8月 第1回市民民謡大会(駅前周辺) 名鉄豊田新線建設 ・11月 豊田市人口229,619人(11月1日現在) 豊田市民総合文化祭 豊田の歴史一万年展(於:郷土資料館) ・3月 消防署大林出張所オープン ▶ 日本のできごと ・4月 祝日の重なりを防ぐ祝日法改正 春闘史上初のゼネスト決行 ・7月 日航・KLM機乗っ取り事件 ・8月 金大中事件 ・10月 江崎玲於奈氏ノーベル物理学賞 ・11月 石油危機と消費規制 トイレットペーパーパニック 熊本の太洋デパート火災で大惨事 ・1月 電力・石油の使用節減強化 ・3月 小野田元少尉 救出成功 ▶ 世界のできごと ・5月 西アフリカ干ばつ ウォーターゲート事件 米上院公聴会で問題化 ・6月 米・ソ会談(ニクソン−ブレジネフ) ・7月 ベンガジ空港でハイジャック ・8月 中国共産党十全体会 ・9月 クーデター(チリ) ・10月 第4次中東戦争 学生騒動 内閣を倒す(タイ) ・1月 日本の経済侵略に怒り(ビルマ) ・3月 エアバス墜落(パリ郊外) ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 東京の国鉄渋谷駅コインロッカーに赤ちゃんの死体が発見されたのに続いて、同様の事件が多発、「未婚の母」が話題になるとともに、赤ちゃんの受難時代でした。 6月には北海道でマグニチュード7.2の「根室地震」が起きて、世の中に不安な影を落としました。 主婦たちがトイレットペーパーを買い急ぎ、いわゆる石油ショックによるトイレットペーパーパニックが起こった年でもありました。その中で、人々の人気を集めたのは、競馬界のハイセーコーの活躍でした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「ゆずりあう心を」 *第7代 森田 校長 雨後校庭に立つと、創立当時学区の方たちが総動員で各字から自慢の樹々を持ちよって植えてくださったたくさんの樹木が、あるいは大木になり、あるいはよい枝ぶりになり、あるいは見事な花をいっぱい咲かせています。そして、各教師や運動場では、千人の生徒が真剣な眼差しで勉強に取り組んでおります。 ここまでにしてくださった歴代の諸先生、PTAの方々、そして卒業生の生徒諸君に、心から厚くお礼申し上げます。縁あってこの懐かしいふる里の学校に戻った私は今、この伝統ある歴史を傷つけないよう、最後のご奉公をしようと心を新たにしています。 ここで生徒諸君にも一つ二つ希望を述べてみたい。「鉄は熱い中にうて」といわれるが、諸君は今真っ赤に焼けた鉄である。鋳型にはめられて「鋳物」になるか、焼いてはたたき、焼いては鍛えられる「鋼鉄」になるかは、諸君の決意如何にある。 故ケネディ―大統領が就任の時に「国家が諸君に何をしてくれるかではなく、諸君が国家に何をもって貢献することができるのか、自ら問え」と言っているが、この積極性こそ、今、諸君に臨みたい。 次に望みたいことは「自己中心を捨てよう」ということです。それは、今までは若者も大人もあまりにも自分というものを中心に、ものを判断し行動してきたようである。世の中は今や共存時代へと移行しています。一人の人間が生きていくということは、誰かの犠牲の上に生きることではなく、みんなが生きるその中で一緒に生きることでなければなりません。そのためには、「ゆずりあう」心が大切です。そしてこそ、他人も幸せ、自分も幸せであります。仲良く楽しい学校にしましょう。 「座右の銘を持とう」 *第11代PTA会長 高岡中学校も創立されて以来もう30年、高岡地区という質実剛健の気風と、恵まれた風土に支えられ、義務教育の最終学府としてますますその内容を充実し、前途有為な若者を多く育てあげてきた。私はどこの中学校も同様な過程を経て今日に至っているということを十分承知の上で、なお高岡中学校を他地区にない特別によい学校だと思いたいし、絶対にそうしなければならないというのが、私たちの義務とさえ考えている。 昭和48年3月、PTAの会長を指名された時、私は一種の使命感を感じた。それは教育の実務と実行を推進し向上させる上で、学校の内外を問わず、生徒に接するすべての人間・風物・事象は、即直ちに有能な教育者であり、教材でなければならないと思ったからだ。ある時には生徒をりっぱに感化する教育者であり、ある時にはやさしく慰める自然の風物がそこになければならないと思ったからだ。思い半ばにして後任者に願いを托したが、年を経た今日も、その考え方は変わっていない。 人気も終わりに近い卒業式の日、祝辞で生徒諸君に、「人生の座右の銘を持とう」と強調した記憶がある。私たちが接した尊敬する人々には、形容しがたいおくゆかしさと漂う尊厳さを感じた経験が誰でもあると思う。私はそれらの全ては、その人の内に秘める強固な精神による自己研鑽とそれをしなければならなかったその人特有の環境があったからだと信じて疑わない。個々に銘記する「座右の銘」は、個人を含め、社会連帯の責任における教育環境の確立という社会の動輪に対して欠くことのできぬもう一方の重要な動輪であると確信している。 私の座右の銘は20歳の夏、「死して惜しまれる人となれ」と決めて以来、事あるごとに慰めの言葉となり、𠮟責の言葉となり、激励の言葉となって生き続けてきた。私には将来に向かってさらに重要な「座右の銘」となって生き続けるであろうと思う。 「別れは船出」 *第1回竜神中卒業生 もう、あれから4年という歳月が過ぎ去ろうとしている。あの時 −高岡から竜神に別れた日− 私の心の中に、なつかしい思い出の一つとなって刻み込まれていることである。それを何かにたとえるとするならば、一つの新しい船出だと思う。私たちに与えられた『別れの船出』なのである。 ちょうど今から5年ほど前、「高岡中学校から新しい分校ができる」という噂が広がった。その噂が、現実となった時の驚きを、一体、どのように表現したらよいのだろうか。毎朝6時に目を覚まし、2年間通い続けたこの道、今まで培われてきた学校生活、全てが無駄になってしまうようで、無性に腹立たしく感じられた。その上、親しい友とも別れなければならない、と強制的に決められてしまったし、新しい未知の学校へ転入することは大きな不安となって、私の上にのしかかっていた。言い尽くせないほどの不満のため、家に帰っても不平ばかり言っていたのを思い出す。そんな中で、各学年主催の「お別れ会」が開かれ、全校生徒の「手の塔」も記念に作られた。こうして、新学期が始まると同時に新しい学校竜神の3年生として、希望と寂しさを抱きながら別れて行ったのである。 別れた友と会わぬまま待望の高岡・竜神の合同修学旅行がやってきた。「うれしかった」―― お互いの学校の親交会でムードが盛り上がり、夢中で話をし合った。この喜びは、今も忘れることができないし、永遠に忘れるべきではないと思う。 今、あれから4年後、私は、新しく生まれた竜神中学校の第1期生として卒業した。一本の糸をたぐり寄せるように思い起こすと、この思い出のすべてが、高岡との別れにつながっている。 すばらしい船出は、今も、私の胸に……。 最後にひとこと。『高岡中学校、30周年、おめでとう』 「中学の思い出」 *48年度卒業生(高中だよりより) 逢妻男川のほとりの小高い丘にわれわれの高岡中学校があります。昨年新設した竜神中学校にかなりの生徒が移動したにもかかわらず、なお、千余人の生徒数を持つジャンボ校です。この高岡中学校と聞いて、まず思い出されるのがクラブ活動です。今年は竜神中の新設などで思いどおりの成績が得られなかったのは残念ですが、毎年上位入賞するその実力は市内の中学校に恐れられています。 また、クラブの面だけでなく学習の面でもこれに劣りません。自主学習の徹底で進学率の高いことは知ってのとおりです。そして、生徒会活動の面では、体育大会、文化祭、球技大会など、学校行事のほとんどが生徒自身の手で主体的に計画運営されています。 われわれ高中生は、学習とクラブの両立をたてまえとし、「質実剛健」の校風のもとに「自立的自主的な人間」、「健康で教養の高い人間」、「よい社会人に」と3つの目標に向かって日々躍進を続けています。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…学校生活・特活デー開催 ・下…学校生活・味バザー開催 ■ 生徒の結びつきいっそう強固に ――― 「特活デー 開かれる」 生徒にとっては待望久しい『特活デー』が、2月21日終日行われた。 この特活デーというのは、昨年度から試みられているもので、そのねらいは、授業をはなれた場で、レクレーション活動等を通して生徒同志の親睦を深め、さらに教師と生徒の結びつきをいっそう強固なものにしようということにある。もう少しくだけて言うならば、時には勉強を忘れて教師も生徒と一緒に大いに楽しむ時間を持とうではないか、ということである。 もちろん、無計画に時間をつぶすというのではない。この日に向けて各クラスとも最善を練っての準備がなされたのである。 さて当日。1年の映画会、2年の玉入れ大会を皮切りにクラス行事に移った。サイクリング、ハイキングに出かけるクラス、ゲームに、球技に興じるクラス、調理で味を楽しむクラス等々、どの生徒の顔も日頃の緊張から解放されて、実にのびのびとしていた。 後日の反省で、この一年で最も思い出に残る日とする生徒の多かったことを思えば、この特活デー、まずは大成功というべきであろう。 ■ 味バザー開催 初の試みである。混乱するのでは、という生徒会本部の懸念をよそに整然と運営された。 「ぜんざい」と「高中煮」とメニューこそ限られたが、どの生徒もバザーの雰囲気ともども味を楽しんでいた。 ★シリーズ 高岡中の歴史 31-10
令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その31】-10 *高岡中学校開校27年目 昭和48年度(1973年〜1974年) 校長:森田 校長(第7代) 生徒数:1,010人(男子:513人 女子:497人) 教員数:42人 ▶ 学校のうごき ・4月 森田 氏 第7代校長に就任 ・5月 写生大会(午前)・陸上記録会(午後)、心電図測定 ・6月 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年)、県教委体育指導訪問 ・7月 プール竣工・プール開き *教育大生4名模範泳法 西三大会ハンドボール会場(本校) ・8月 キャンプ(2年:夕森)、蛍光灯工事(4,5棟) ・10月 市陸上大会(トヨタ自工グラウンド) 遠足 *1年:洲原池、2年:祐福寺、3年:三好池 海外研修派遣・石川巖教諭、体育倉庫内壁修理 ・11月 市長距離継走大会・男女優勝 ・12月 初代加藤倉次郎校長叙勲祝賀会 ・3月 卒業記念除幕式(校門付近石垣) ▶ 地域のうつりかわり ・4月 竜神中学校が新設開校 *約250名が転校 全国各地から豊田市へ集団就職 4,071人 ・6月 高橋公民館オープン ・7月 市とトヨタ自工が公害防止協定締結 老人福祉電話開設 ・8月 第1回市民民謡大会(駅前周辺) 名鉄豊田新線建設 ・11月 豊田市人口229,619人(11月1日現在) 豊田市民総合文化祭 豊田の歴史一万年展(於:郷土資料館) ・3月 消防署大林出張所オープン ▶ 日本のできごと ・4月 祝日の重なりを防ぐ祝日法改正 春闘史上初のゼネスト決行 ・7月 日航・KLM機乗っ取り事件 ・8月 金大中事件 ・10月 江崎玲於奈氏ノーベル物理学賞 ・11月 石油危機と消費規制 トイレットペーパーパニック 熊本の太洋デパート火災で大惨事 ・1月 電力・石油の使用節減強化 ・3月 小野田元少尉 救出成功 ▶ 世界のできごと ・5月 西アフリカ干ばつ ウォーターゲート事件 米上院公聴会で問題化 ・6月 米・ソ会談(ニクソン−ブレジネフ) ・7月 ベンガジ空港でハイジャック ・8月 中国共産党十全体会 ・9月 クーデター(チリ) ・10月 第4次中東戦争 学生騒動 内閣を倒す(タイ) ・1月 日本の経済侵略に怒り(ビルマ) ・3月 エアバス墜落(パリ郊外) ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 東京の国鉄渋谷駅コインロッカーに赤ちゃんの死体が発見されたのに続いて、同様の事件が多発、「未婚の母」が話題になるとともに、赤ちゃんの受難時代でした。 6月には北海道でマグニチュード7.2の「根室地震」が起きて、世の中に不安な影を落としました。 主婦たちがトイレットペーパーを買い急ぎ、いわゆる石油ショックによるトイレットペーパーパニックが起こった年でもありました。その中で、人々の人気を集めたのは、競馬界のハイセーコーの活躍でした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「ゆずりあう心を」 *第7代 森田 校長 雨後校庭に立つと、創立当時学区の方たちが総動員で各字から自慢の樹々を持ちよって植えてくださったたくさんの樹木が、あるいは大木になり、あるいはよい枝ぶりになり、あるいは見事な花をいっぱい咲かせています。そして、各教師や運動場では、千人の生徒が真剣な眼差しで勉強に取り組んでおります。 ここまでにしてくださった歴代の諸先生、PTAの方々、そして卒業生の生徒諸君に、心から厚くお礼申し上げます。縁あってこの懐かしいふる里の学校に戻った私は今、この伝統ある歴史を傷つけないよう、最後のご奉公をしようと心を新たにしています。 ここで生徒諸君にも一つ二つ希望を述べてみたい。「鉄は熱い中にうて」といわれるが、諸君は今真っ赤に焼けた鉄である。鋳型にはめられて「鋳物」になるか、焼いてはたたき、焼いては鍛えられる「鋼鉄」になるかは、諸君の決意如何にある。 故ケネディ―大統領が就任の時に「国家が諸君に何をしてくれるかではなく、諸君が国家に何をもって貢献することができるのか、自ら問え」と言っているが、この積極性こそ、今、諸君に臨みたい。 次に望みたいことは「自己中心を捨てよう」ということです。それは、今までは若者も大人もあまりにも自分というものを中心に、ものを判断し行動してきたようである。世の中は今や共存時代へと移行しています。一人の人間が生きていくということは、誰かの犠牲の上に生きることではなく、みんなが生きるその中で一緒に生きることでなければなりません。そのためには、「ゆずりあう」心が大切です。そしてこそ、他人も幸せ、自分も幸せであります。仲良く楽しい学校にしましょう。 「座右の銘を持とう」 *第11代PTA会長 高岡中学校も創立されて以来もう30年、高岡地区という質実剛健の気風と、恵まれた風土に支えられ、義務教育の最終学府としてますますその内容を充実し、前途有為な若者を多く育てあげてきた。私はどこの中学校も同様な過程を経て今日に至っているということを十分承知の上で、なお高岡中学校を他地区にない特別によい学校だと思いたいし、絶対にそうしなければならないというのが、私たちの義務とさえ考えている。 昭和48年3月、PTAの会長を指名された時、私は一種の使命感を感じた。それは教育の実務と実行を推進し向上させる上で、学校の内外を問わず、生徒に接するすべての人間・風物・事象は、即直ちに有能な教育者であり、教材でなければならないと思ったからだ。ある時には生徒をりっぱに感化する教育者であり、ある時にはやさしく慰める自然の風物がそこになければならないと思ったからだ。思い半ばにして後任者に願いを托したが、年を経た今日も、その考え方は変わっていない。 人気も終わりに近い卒業式の日、祝辞で生徒諸君に、「人生の座右の銘を持とう」と強調した記憶がある。私たちが接した尊敬する人々には、形容しがたいおくゆかしさと漂う尊厳さを感じた経験が誰でもあると思う。私はそれらの全ては、その人の内に秘める強固な精神による自己研鑽とそれをしなければならなかったその人特有の環境があったからだと信じて疑わない。個々に銘記する「座右の銘」は、個人を含め、社会連帯の責任における教育環境の確立という社会の動輪に対して欠くことのできぬもう一方の重要な動輪であると確信している。 私の座右の銘は20歳の夏、「死して惜しまれる人となれ」と決めて以来、事あるごとに慰めの言葉となり、𠮟責の言葉となり、激励の言葉となって生き続けてきた。私には将来に向かってさらに重要な「座右の銘」となって生き続けるであろうと思う。 「別れは船出」 *第1回竜神中卒業生 もう、あれから4年という歳月が過ぎ去ろうとしている。あの時 −高岡から竜神に別れた日− 私の心の中に、なつかしい思い出の一つとなって刻み込まれていることである。それを何かにたとえるとするならば、一つの新しい船出だと思う。私たちに与えられた『別れの船出』なのである。 ちょうど今から5年ほど前、「高岡中学校から新しい分校ができる」という噂が広がった。その噂が、現実となった時の驚きを、一体、どのように表現したらよいのだろうか。毎朝6時に目を覚まし、2年間通い続けたこの道、今まで培われてきた学校生活、全てが無駄になってしまうようで、無性に腹立たしく感じられた。その上、親しい友とも別れなければならない、と強制的に決められてしまったし、新しい未知の学校へ転入することは大きな不安となって、私の上にのしかかっていた。言い尽くせないほどの不満のため、家に帰っても不平ばかり言っていたのを思い出す。そんな中で、各学年主催の「お別れ会」が開かれ、全校生徒の「手の塔」も記念に作られた。こうして、新学期が始まると同時に新しい学校竜神の3年生として、希望と寂しさを抱きながら別れて行ったのである。 別れた友と会わぬまま待望の高岡・竜神の合同修学旅行がやってきた。「うれしかった」―― お互いの学校の親交会でムードが盛り上がり、夢中で話をし合った。この喜びは、今も忘れることができないし、永遠に忘れるべきではないと思う。 今、あれから4年後、私は、新しく生まれた竜神中学校の第1期生として卒業した。一本の糸をたぐり寄せるように思い起こすと、この思い出のすべてが、高岡との別れにつながっている。 すばらしい船出は、今も、私の胸に……。 最後にひとこと。『高岡中学校、30周年、おめでとう』 「中学の思い出」 *48年度卒業生(高中だよりより) 逢妻男川のほとりの小高い丘にわれわれの高岡中学校があります。昨年新設した竜神中学校にかなりの生徒が移動したにもかかわらず、なお、千余人の生徒数を持つジャンボ校です。この高岡中学校と聞いて、まず思い出されるのがクラブ活動です。今年は竜神中の新設などで思いどおりの成績が得られなかったのは残念ですが、毎年上位入賞するその実力は市内の中学校に恐れられています。 また、クラブの面だけでなく学習の面でもこれに劣りません。自主学習の徹底で進学率の高いことは知ってのとおりです。そして、生徒会活動の面では、体育大会、文化祭、球技大会など、学校行事のほとんどが生徒自身の手で主体的に計画運営されています。 われわれ高中生は、学習とクラブの両立をたてまえとし、「質実剛健」の校風のもとに「自立的自主的な人間」、「健康で教養の高い人間」、「よい社会人に」と3つの目標に向かって日々躍進を続けています。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…学校生活・修学旅行(鎌倉鶴岡八幡宮前にて) ・中…学校生活・入学記念写真 ・下…学校生活・旺文社読書感想文(優秀校受賞) ★シリーズ 高岡中の歴史 31-9
令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その31】-9 *高岡中学校開校27年目 昭和48年度(1973年〜1974年) 校長:森田 校長(第7代) 生徒数:1,010人(男子:513人 女子:497人) 教員数:42人 ▶ 学校のうごき ・4月 森田 氏 第7代校長に就任 ・5月 写生大会(午前)・陸上記録会(午後)、心電図測定 ・6月 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年)、県教委体育指導訪問 ・7月 プール竣工・プール開き *教育大生4名模範泳法 西三大会ハンドボール会場(本校) ・8月 キャンプ(2年:夕森)、蛍光灯工事(4,5棟) ・10月 市陸上大会(トヨタ自工グラウンド) 遠足 *1年:洲原池、2年:祐福寺、3年:三好池 海外研修派遣・石川巖教諭、体育倉庫内壁修理 ・11月 市長距離継走大会・男女優勝 ・12月 初代加藤倉次郎校長叙勲祝賀会 ・3月 卒業記念除幕式(校門付近石垣) ▶ 地域のうつりかわり ・4月 竜神中学校が新設開校 *約250名が転校 全国各地から豊田市へ集団就職 4,071人 ・6月 高橋公民館オープン ・7月 市とトヨタ自工が公害防止協定締結 老人福祉電話開設 ・8月 第1回市民民謡大会(駅前周辺) 名鉄豊田新線建設 ・11月 豊田市人口229,619人(11月1日現在) 豊田市民総合文化祭 豊田の歴史一万年展(於:郷土資料館) ・3月 消防署大林出張所オープン ▶ 日本のできごと ・4月 祝日の重なりを防ぐ祝日法改正 春闘史上初のゼネスト決行 ・7月 日航・KLM機乗っ取り事件 ・8月 金大中事件 ・10月 江崎玲於奈氏ノーベル物理学賞 ・11月 石油危機と消費規制 トイレットペーパーパニック 熊本の太洋デパート火災で大惨事 ・1月 電力・石油の使用節減強化 ・3月 小野田元少尉 救出成功 ▶ 世界のできごと ・5月 西アフリカ干ばつ ウォーターゲート事件 米上院公聴会で問題化 ・6月 米・ソ会談(ニクソン−ブレジネフ) ・7月 ベンガジ空港でハイジャック ・8月 中国共産党十全体会 ・9月 クーデター(チリ) ・10月 第4次中東戦争 学生騒動 内閣を倒す(タイ) ・1月 日本の経済侵略に怒り(ビルマ) ・3月 エアバス墜落(パリ郊外) ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 東京の国鉄渋谷駅コインロッカーに赤ちゃんの死体が発見されたのに続いて、同様の事件が多発、「未婚の母」が話題になるとともに、赤ちゃんの受難時代でした。 6月には北海道でマグニチュード7.2の「根室地震」が起きて、世の中に不安な影を落としました。 主婦たちがトイレットペーパーを買い急ぎ、いわゆる石油ショックによるトイレットペーパーパニックが起こった年でもありました。その中で、人々の人気を集めたのは、競馬界のハイセーコーの活躍でした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「ゆずりあう心を」 *第7代 森田 校長 雨後校庭に立つと、創立当時学区の方たちが総動員で各字から自慢の樹々を持ちよって植えてくださったたくさんの樹木が、あるいは大木になり、あるいはよい枝ぶりになり、あるいは見事な花をいっぱい咲かせています。そして、各教師や運動場では、千人の生徒が真剣な眼差しで勉強に取り組んでおります。 ここまでにしてくださった歴代の諸先生、PTAの方々、そして卒業生の生徒諸君に、心から厚くお礼申し上げます。縁あってこの懐かしいふる里の学校に戻った私は今、この伝統ある歴史を傷つけないよう、最後のご奉公をしようと心を新たにしています。 ここで生徒諸君にも一つ二つ希望を述べてみたい。「鉄は熱い中にうて」といわれるが、諸君は今真っ赤に焼けた鉄である。鋳型にはめられて「鋳物」になるか、焼いてはたたき、焼いては鍛えられる「鋼鉄」になるかは、諸君の決意如何にある。 故ケネディ―大統領が就任の時に「国家が諸君に何をしてくれるかではなく、諸君が国家に何をもって貢献することができるのか、自ら問え」と言っているが、この積極性こそ、今、諸君に臨みたい。 次に望みたいことは「自己中心を捨てよう」ということです。それは、今までは若者も大人もあまりにも自分というものを中心に、ものを判断し行動してきたようである。世の中は今や共存時代へと移行しています。一人の人間が生きていくということは、誰かの犠牲の上に生きることではなく、みんなが生きるその中で一緒に生きることでなければなりません。そのためには、「ゆずりあう」心が大切です。そしてこそ、他人も幸せ、自分も幸せであります。仲良く楽しい学校にしましょう。 「座右の銘を持とう」 *第11代PTA会長 高岡中学校も創立されて以来もう30年、高岡地区という質実剛健の気風と、恵まれた風土に支えられ、義務教育の最終学府としてますますその内容を充実し、前途有為な若者を多く育てあげてきた。私はどこの中学校も同様な過程を経て今日に至っているということを十分承知の上で、なお高岡中学校を他地区にない特別によい学校だと思いたいし、絶対にそうしなければならないというのが、私たちの義務とさえ考えている。 昭和48年3月、PTAの会長を指名された時、私は一種の使命感を感じた。それは教育の実務と実行を推進し向上させる上で、学校の内外を問わず、生徒に接するすべての人間・風物・事象は、即直ちに有能な教育者であり、教材でなければならないと思ったからだ。ある時には生徒をりっぱに感化する教育者であり、ある時にはやさしく慰める自然の風物がそこになければならないと思ったからだ。思い半ばにして後任者に願いを托したが、年を経た今日も、その考え方は変わっていない。 人気も終わりに近い卒業式の日、祝辞で生徒諸君に、「人生の座右の銘を持とう」と強調した記憶がある。私たちが接した尊敬する人々には、形容しがたいおくゆかしさと漂う尊厳さを感じた経験が誰でもあると思う。私はそれらの全ては、その人の内に秘める強固な精神による自己研鑽とそれをしなければならなかったその人特有の環境があったからだと信じて疑わない。個々に銘記する「座右の銘」は、個人を含め、社会連帯の責任における教育環境の確立という社会の動輪に対して欠くことのできぬもう一方の重要な動輪であると確信している。 私の座右の銘は20歳の夏、「死して惜しまれる人となれ」と決めて以来、事あるごとに慰めの言葉となり、𠮟責の言葉となり、激励の言葉となって生き続けてきた。私には将来に向かってさらに重要な「座右の銘」となって生き続けるであろうと思う。 「別れは船出」 *第1回竜神中卒業生 もう、あれから4年という歳月が過ぎ去ろうとしている。あの時 −高岡から竜神に別れた日− 私の心の中に、なつかしい思い出の一つとなって刻み込まれていることである。それを何かにたとえるとするならば、一つの新しい船出だと思う。私たちに与えられた『別れの船出』なのである。 ちょうど今から5年ほど前、「高岡中学校から新しい分校ができる」という噂が広がった。その噂が、現実となった時の驚きを、一体、どのように表現したらよいのだろうか。毎朝6時に目を覚まし、2年間通い続けたこの道、今まで培われてきた学校生活、全てが無駄になってしまうようで、無性に腹立たしく感じられた。その上、親しい友とも別れなければならない、と強制的に決められてしまったし、新しい未知の学校へ転入することは大きな不安となって、私の上にのしかかっていた。言い尽くせないほどの不満のため、家に帰っても不平ばかり言っていたのを思い出す。そんな中で、各学年主催の「お別れ会」が開かれ、全校生徒の「手の塔」も記念に作られた。こうして、新学期が始まると同時に新しい学校竜神の3年生として、希望と寂しさを抱きながら別れて行ったのである。 別れた友と会わぬまま待望の高岡・竜神の合同修学旅行がやってきた。「うれしかった」―― お互いの学校の親交会でムードが盛り上がり、夢中で話をし合った。この喜びは、今も忘れることができないし、永遠に忘れるべきではないと思う。 今、あれから4年後、私は、新しく生まれた竜神中学校の第1期生として卒業した。一本の糸をたぐり寄せるように思い起こすと、この思い出のすべてが、高岡との別れにつながっている。 すばらしい船出は、今も、私の胸に……。 最後にひとこと。『高岡中学校、30周年、おめでとう』 「中学の思い出」 *48年度卒業生(高中だよりより) 逢妻男川のほとりの小高い丘にわれわれの高岡中学校があります。昨年新設した竜神中学校にかなりの生徒が移動したにもかかわらず、なお、千余人の生徒数を持つジャンボ校です。この高岡中学校と聞いて、まず思い出されるのがクラブ活動です。今年は竜神中の新設などで思いどおりの成績が得られなかったのは残念ですが、毎年上位入賞するその実力は市内の中学校に恐れられています。 また、クラブの面だけでなく学習の面でもこれに劣りません。自主学習の徹底で進学率の高いことは知ってのとおりです。そして、生徒会活動の面では、体育大会、文化祭、球技大会など、学校行事のほとんどが生徒自身の手で主体的に計画運営されています。 われわれ高中生は、学習とクラブの両立をたてまえとし、「質実剛健」の校風のもとに「自立的自主的な人間」、「健康で教養の高い人間」、「よい社会人に」と3つの目標に向かって日々躍進を続けています。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…学校生活・球技大会のひとコマ ・中…学校生活・はりきる女子バレー部 ・下…学校生活・体育大会応援風景 ★シリーズ 高岡中の歴史 31-8
令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その31】-8 *高岡中学校開校27年目 昭和48年度(1973年〜1974年) 校長:森田 校長(第7代) 生徒数:1,010人(男子:513人 女子:497人) 教員数:42人 ▶ 学校のうごき ・4月 森田 氏 第7代校長に就任 ・5月 写生大会(午前)・陸上記録会(午後)、心電図測定 ・6月 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年)、県教委体育指導訪問 ・7月 プール竣工・プール開き *教育大生4名模範泳法 西三大会ハンドボール会場(本校) ・8月 キャンプ(2年:夕森)、蛍光灯工事(4,5棟) ・10月 市陸上大会(トヨタ自工グラウンド) 遠足 *1年:洲原池、2年:祐福寺、3年:三好池 海外研修派遣・石川巖教諭、体育倉庫内壁修理 ・11月 市長距離継走大会・男女優勝 ・12月 初代加藤倉次郎校長叙勲祝賀会 ・3月 卒業記念除幕式(校門付近石垣) ▶ 地域のうつりかわり ・4月 竜神中学校が新設開校 *約250名が転校 全国各地から豊田市へ集団就職 4,071人 ・6月 高橋公民館オープン ・7月 市とトヨタ自工が公害防止協定締結 老人福祉電話開設 ・8月 第1回市民民謡大会(駅前周辺) 名鉄豊田新線建設 ・11月 豊田市人口229,619人(11月1日現在) 豊田市民総合文化祭 豊田の歴史一万年展(於:郷土資料館) ・3月 消防署大林出張所オープン ▶ 日本のできごと ・4月 祝日の重なりを防ぐ祝日法改正 春闘史上初のゼネスト決行 ・7月 日航・KLM機乗っ取り事件 ・8月 金大中事件 ・10月 江崎玲於奈氏ノーベル物理学賞 ・11月 石油危機と消費規制 トイレットペーパーパニック 熊本の太洋デパート火災で大惨事 ・1月 電力・石油の使用節減強化 ・3月 小野田元少尉 救出成功 ▶ 世界のできごと ・5月 西アフリカ干ばつ ウォーターゲート事件 米上院公聴会で問題化 ・6月 米・ソ会談(ニクソン−ブレジネフ) ・7月 ベンガジ空港でハイジャック ・8月 中国共産党十全体会 ・9月 クーデター(チリ) ・10月 第4次中東戦争 学生騒動 内閣を倒す(タイ) ・1月 日本の経済侵略に怒り(ビルマ) ・3月 エアバス墜落(パリ郊外) ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 東京の国鉄渋谷駅コインロッカーに赤ちゃんの死体が発見されたのに続いて、同様の事件が多発、「未婚の母」が話題になるとともに、赤ちゃんの受難時代でした。 6月には北海道でマグニチュード7.2の「根室地震」が起きて、世の中に不安な影を落としました。 主婦たちがトイレットペーパーを買い急ぎ、いわゆる石油ショックによるトイレットペーパーパニックが起こった年でもありました。その中で、人々の人気を集めたのは、競馬界のハイセーコーの活躍でした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「ゆずりあう心を」 *第7代 森田 校長 雨後校庭に立つと、創立当時学区の方たちが総動員で各字から自慢の樹々を持ちよって植えてくださったたくさんの樹木が、あるいは大木になり、あるいはよい枝ぶりになり、あるいは見事な花をいっぱい咲かせています。そして、各教師や運動場では、千人の生徒が真剣な眼差しで勉強に取り組んでおります。 ここまでにしてくださった歴代の諸先生、PTAの方々、そして卒業生の生徒諸君に、心から厚くお礼申し上げます。縁あってこの懐かしいふる里の学校に戻った私は今、この伝統ある歴史を傷つけないよう、最後のご奉公をしようと心を新たにしています。 ここで生徒諸君にも一つ二つ希望を述べてみたい。「鉄は熱い中にうて」といわれるが、諸君は今真っ赤に焼けた鉄である。鋳型にはめられて「鋳物」になるか、焼いてはたたき、焼いては鍛えられる「鋼鉄」になるかは、諸君の決意如何にある。 故ケネディ―大統領が就任の時に「国家が諸君に何をしてくれるかではなく、諸君が国家に何をもって貢献することができるのか、自ら問え」と言っているが、この積極性こそ、今、諸君に臨みたい。 次に望みたいことは「自己中心を捨てよう」ということです。それは、今までは若者も大人もあまりにも自分というものを中心に、ものを判断し行動してきたようである。世の中は今や共存時代へと移行しています。一人の人間が生きていくということは、誰かの犠牲の上に生きることではなく、みんなが生きるその中で一緒に生きることでなければなりません。そのためには、「ゆずりあう」心が大切です。そしてこそ、他人も幸せ、自分も幸せであります。仲良く楽しい学校にしましょう。 「座右の銘を持とう」 *第11代PTA会長 高岡中学校も創立されて以来もう30年、高岡地区という質実剛健の気風と、恵まれた風土に支えられ、義務教育の最終学府としてますますその内容を充実し、前途有為な若者を多く育てあげてきた。私はどこの中学校も同様な過程を経て今日に至っているということを十分承知の上で、なお高岡中学校を他地区にない特別によい学校だと思いたいし、絶対にそうしなければならないというのが、私たちの義務とさえ考えている。 昭和48年3月、PTAの会長を指名された時、私は一種の使命感を感じた。それは教育の実務と実行を推進し向上させる上で、学校の内外を問わず、生徒に接するすべての人間・風物・事象は、即直ちに有能な教育者であり、教材でなければならないと思ったからだ。ある時には生徒をりっぱに感化する教育者であり、ある時にはやさしく慰める自然の風物がそこになければならないと思ったからだ。思い半ばにして後任者に願いを托したが、年を経た今日も、その考え方は変わっていない。 人気も終わりに近い卒業式の日、祝辞で生徒諸君に、「人生の座右の銘を持とう」と強調した記憶がある。私たちが接した尊敬する人々には、形容しがたいおくゆかしさと漂う尊厳さを感じた経験が誰でもあると思う。私はそれらの全ては、その人の内に秘める強固な精神による自己研鑽とそれをしなければならなかったその人特有の環境があったからだと信じて疑わない。個々に銘記する「座右の銘」は、個人を含め、社会連帯の責任における教育環境の確立という社会の動輪に対して欠くことのできぬもう一方の重要な動輪であると確信している。 私の座右の銘は20歳の夏、「死して惜しまれる人となれ」と決めて以来、事あるごとに慰めの言葉となり、𠮟責の言葉となり、激励の言葉となって生き続けてきた。私には将来に向かってさらに重要な「座右の銘」となって生き続けるであろうと思う。 「別れは船出」 *第1回竜神中卒業生 もう、あれから4年という歳月が過ぎ去ろうとしている。あの時 −高岡から竜神に別れた日− 私の心の中に、なつかしい思い出の一つとなって刻み込まれていることである。それを何かにたとえるとするならば、一つの新しい船出だと思う。私たちに与えられた『別れの船出』なのである。 ちょうど今から5年ほど前、「高岡中学校から新しい分校ができる」という噂が広がった。その噂が、現実となった時の驚きを、一体、どのように表現したらよいのだろうか。毎朝6時に目を覚まし、2年間通い続けたこの道、今まで培われてきた学校生活、全てが無駄になってしまうようで、無性に腹立たしく感じられた。その上、親しい友とも別れなければならない、と強制的に決められてしまったし、新しい未知の学校へ転入することは大きな不安となって、私の上にのしかかっていた。言い尽くせないほどの不満のため、家に帰っても不平ばかり言っていたのを思い出す。そんな中で、各学年主催の「お別れ会」が開かれ、全校生徒の「手の塔」も記念に作られた。こうして、新学期が始まると同時に新しい学校竜神の3年生として、希望と寂しさを抱きながら別れて行ったのである。 別れた友と会わぬまま待望の高岡・竜神の合同修学旅行がやってきた。「うれしかった」―― お互いの学校の親交会でムードが盛り上がり、夢中で話をし合った。この喜びは、今も忘れることができないし、永遠に忘れるべきではないと思う。 今、あれから4年後、私は、新しく生まれた竜神中学校の第1期生として卒業した。一本の糸をたぐり寄せるように思い起こすと、この思い出のすべてが、高岡との別れにつながっている。 すばらしい船出は、今も、私の胸に……。 最後にひとこと。『高岡中学校、30周年、おめでとう』 「中学の思い出」 *48年度卒業生(高中だよりより) 逢妻男川のほとりの小高い丘にわれわれの高岡中学校があります。昨年新設した竜神中学校にかなりの生徒が移動したにもかかわらず、なお、千余人の生徒数を持つジャンボ校です。この高岡中学校と聞いて、まず思い出されるのがクラブ活動です。今年は竜神中の新設などで思いどおりの成績が得られなかったのは残念ですが、毎年上位入賞するその実力は市内の中学校に恐れられています。 また、クラブの面だけでなく学習の面でもこれに劣りません。自主学習の徹底で進学率の高いことは知ってのとおりです。そして、生徒会活動の面では、体育大会、文化祭、球技大会など、学校行事のほとんどが生徒自身の手で主体的に計画運営されています。 われわれ高中生は、学習とクラブの両立をたてまえとし、「質実剛健」の校風のもとに「自立的自主的な人間」、「健康で教養の高い人間」、「よい社会人に」と3つの目標に向かって日々躍進を続けています。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…学校生活・夕森キャンプ(1年時)1 ・中…学校生活・夕森キャンプ(1年時)2 ・下…学校生活・夕森キャンプ(1年時)3 ★シリーズ 高岡中の歴史 31-7
令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その31】-7 *高岡中学校開校27年目 昭和48年度(1973年〜1974年) 校長:森田 校長(第7代) 生徒数:1,010人(男子:513人 女子:497人) 教員数:42人 ▶ 学校のうごき ・4月 森田 氏 第7代校長に就任 ・5月 写生大会(午前)・陸上記録会(午後)、心電図測定 ・6月 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年)、県教委体育指導訪問 ・7月 プール竣工・プール開き *教育大生4名模範泳法 西三大会ハンドボール会場(本校) ・8月 キャンプ(2年:夕森)、蛍光灯工事(4,5棟) ・10月 市陸上大会(トヨタ自工グラウンド) 遠足 *1年:洲原池、2年:祐福寺、3年:三好池 海外研修派遣・石川巖教諭、体育倉庫内壁修理 ・11月 市長距離継走大会・男女優勝 ・12月 初代加藤倉次郎校長叙勲祝賀会 ・3月 卒業記念除幕式(校門付近石垣) ▶ 地域のうつりかわり ・4月 竜神中学校が新設開校 *約250名が転校 全国各地から豊田市へ集団就職 4,071人 ・6月 高橋公民館オープン ・7月 市とトヨタ自工が公害防止協定締結 老人福祉電話開設 ・8月 第1回市民民謡大会(駅前周辺) 名鉄豊田新線建設 ・11月 豊田市人口229,619人(11月1日現在) 豊田市民総合文化祭 豊田の歴史一万年展(於:郷土資料館) ・3月 消防署大林出張所オープン ▶ 日本のできごと ・4月 祝日の重なりを防ぐ祝日法改正 春闘史上初のゼネスト決行 ・7月 日航・KLM機乗っ取り事件 ・8月 金大中事件 ・10月 江崎玲於奈氏ノーベル物理学賞 ・11月 石油危機と消費規制 トイレットペーパーパニック 熊本の太洋デパート火災で大惨事 ・1月 電力・石油の使用節減強化 ・3月 小野田元少尉 救出成功 ▶ 世界のできごと ・5月 西アフリカ干ばつ ウォーターゲート事件 米上院公聴会で問題化 ・6月 米・ソ会談(ニクソン−ブレジネフ) ・7月 ベンガジ空港でハイジャック ・8月 中国共産党十全体会 ・9月 クーデター(チリ) ・10月 第4次中東戦争 学生騒動 内閣を倒す(タイ) ・1月 日本の経済侵略に怒り(ビルマ) ・3月 エアバス墜落(パリ郊外) ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 東京の国鉄渋谷駅コインロッカーに赤ちゃんの死体が発見されたのに続いて、同様の事件が多発、「未婚の母」が話題になるとともに、赤ちゃんの受難時代でした。 6月には北海道でマグニチュード7.2の「根室地震」が起きて、世の中に不安な影を落としました。 主婦たちがトイレットペーパーを買い急ぎ、いわゆる石油ショックによるトイレットペーパーパニックが起こった年でもありました。その中で、人々の人気を集めたのは、競馬界のハイセーコーの活躍でした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「ゆずりあう心を」 *第7代 森田 校長 雨後校庭に立つと、創立当時学区の方たちが総動員で各字から自慢の樹々を持ちよって植えてくださったたくさんの樹木が、あるいは大木になり、あるいはよい枝ぶりになり、あるいは見事な花をいっぱい咲かせています。そして、各教師や運動場では、千人の生徒が真剣な眼差しで勉強に取り組んでおります。 ここまでにしてくださった歴代の諸先生、PTAの方々、そして卒業生の生徒諸君に、心から厚くお礼申し上げます。縁あってこの懐かしいふる里の学校に戻った私は今、この伝統ある歴史を傷つけないよう、最後のご奉公をしようと心を新たにしています。 ここで生徒諸君にも一つ二つ希望を述べてみたい。「鉄は熱い中にうて」といわれるが、諸君は今真っ赤に焼けた鉄である。鋳型にはめられて「鋳物」になるか、焼いてはたたき、焼いては鍛えられる「鋼鉄」になるかは、諸君の決意如何にある。 故ケネディ―大統領が就任の時に「国家が諸君に何をしてくれるかではなく、諸君が国家に何をもって貢献することができるのか、自ら問え」と言っているが、この積極性こそ、今、諸君に臨みたい。 次に望みたいことは「自己中心を捨てよう」ということです。それは、今までは若者も大人もあまりにも自分というものを中心に、ものを判断し行動してきたようである。世の中は今や共存時代へと移行しています。一人の人間が生きていくということは、誰かの犠牲の上に生きることではなく、みんなが生きるその中で一緒に生きることでなければなりません。そのためには、「ゆずりあう」心が大切です。そしてこそ、他人も幸せ、自分も幸せであります。仲良く楽しい学校にしましょう。 「座右の銘を持とう」 *第11代PTA会長 高岡中学校も創立されて以来もう30年、高岡地区という質実剛健の気風と、恵まれた風土に支えられ、義務教育の最終学府としてますますその内容を充実し、前途有為な若者を多く育てあげてきた。私はどこの中学校も同様な過程を経て今日に至っているということを十分承知の上で、なお高岡中学校を他地区にない特別によい学校だと思いたいし、絶対にそうしなければならないというのが、私たちの義務とさえ考えている。 昭和48年3月、PTAの会長を指名された時、私は一種の使命感を感じた。それは教育の実務と実行を推進し向上させる上で、学校の内外を問わず、生徒に接するすべての人間・風物・事象は、即直ちに有能な教育者であり、教材でなければならないと思ったからだ。ある時には生徒をりっぱに感化する教育者であり、ある時にはやさしく慰める自然の風物がそこになければならないと思ったからだ。思い半ばにして後任者に願いを托したが、年を経た今日も、その考え方は変わっていない。 人気も終わりに近い卒業式の日、祝辞で生徒諸君に、「人生の座右の銘を持とう」と強調した記憶がある。私たちが接した尊敬する人々には、形容しがたいおくゆかしさと漂う尊厳さを感じた経験が誰でもあると思う。私はそれらの全ては、その人の内に秘める強固な精神による自己研鑽とそれをしなければならなかったその人特有の環境があったからだと信じて疑わない。個々に銘記する「座右の銘」は、個人を含め、社会連帯の責任における教育環境の確立という社会の動輪に対して欠くことのできぬもう一方の重要な動輪であると確信している。 私の座右の銘は20歳の夏、「死して惜しまれる人となれ」と決めて以来、事あるごとに慰めの言葉となり、𠮟責の言葉となり、激励の言葉となって生き続けてきた。私には将来に向かってさらに重要な「座右の銘」となって生き続けるであろうと思う。 「別れは船出」 *第1回竜神中卒業生 もう、あれから4年という歳月が過ぎ去ろうとしている。あの時 −高岡から竜神に別れた日− 私の心の中に、なつかしい思い出の一つとなって刻み込まれていることである。それを何かにたとえるとするならば、一つの新しい船出だと思う。私たちに与えられた『別れの船出』なのである。 ちょうど今から5年ほど前、「高岡中学校から新しい分校ができる」という噂が広がった。その噂が、現実となった時の驚きを、一体、どのように表現したらよいのだろうか。毎朝6時に目を覚まし、2年間通い続けたこの道、今まで培われてきた学校生活、全てが無駄になってしまうようで、無性に腹立たしく感じられた。その上、親しい友とも別れなければならない、と強制的に決められてしまったし、新しい未知の学校へ転入することは大きな不安となって、私の上にのしかかっていた。言い尽くせないほどの不満のため、家に帰っても不平ばかり言っていたのを思い出す。そんな中で、各学年主催の「お別れ会」が開かれ、全校生徒の「手の塔」も記念に作られた。こうして、新学期が始まると同時に新しい学校竜神の3年生として、希望と寂しさを抱きながら別れて行ったのである。 別れた友と会わぬまま待望の高岡・竜神の合同修学旅行がやってきた。「うれしかった」―― お互いの学校の親交会でムードが盛り上がり、夢中で話をし合った。この喜びは、今も忘れることができないし、永遠に忘れるべきではないと思う。 今、あれから4年後、私は、新しく生まれた竜神中学校の第1期生として卒業した。一本の糸をたぐり寄せるように思い起こすと、この思い出のすべてが、高岡との別れにつながっている。 すばらしい船出は、今も、私の胸に……。 最後にひとこと。『高岡中学校、30周年、おめでとう』 「中学の思い出」 *48年度卒業生(高中だよりより) 逢妻男川のほとりの小高い丘にわれわれの高岡中学校があります。昨年新設した竜神中学校にかなりの生徒が移動したにもかかわらず、なお、千余人の生徒数を持つジャンボ校です。この高岡中学校と聞いて、まず思い出されるのがクラブ活動です。今年は竜神中の新設などで思いどおりの成績が得られなかったのは残念ですが、毎年上位入賞するその実力は市内の中学校に恐れられています。 また、クラブの面だけでなく学習の面でもこれに劣りません。自主学習の徹底で進学率の高いことは知ってのとおりです。そして、生徒会活動の面では、体育大会、文化祭、球技大会など、学校行事のほとんどが生徒自身の手で主体的に計画運営されています。 われわれ高中生は、学習とクラブの両立をたてまえとし、「質実剛健」の校風のもとに「自立的自主的な人間」、「健康で教養の高い人間」、「よい社会人に」と3つの目標に向かって日々躍進を続けています。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…クラス写真(3年6組) ・下…クラス写真(3年7組) ★シリーズ 高岡中の歴史 31-6
令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その31】-6 *高岡中学校開校27年目 昭和48年度(1973年〜1974年) 校長:森田 校長(第7代) 生徒数:1,010人(男子:513人 女子:497人) 教員数:42人 ▶ 学校のうごき ・4月 森田 氏 第7代校長に就任 ・5月 写生大会(午前)・陸上記録会(午後)、心電図測定 ・6月 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年)、県教委体育指導訪問 ・7月 プール竣工・プール開き *教育大生4名模範泳法 西三大会ハンドボール会場(本校) ・8月 キャンプ(2年:夕森)、蛍光灯工事(4,5棟) ・10月 市陸上大会(トヨタ自工グラウンド) 遠足 *1年:洲原池、2年:祐福寺、3年:三好池 海外研修派遣・石川巖教諭、体育倉庫内壁修理 ・11月 市長距離継走大会・男女優勝 ・12月 初代加藤倉次郎校長叙勲祝賀会 ・3月 卒業記念除幕式(校門付近石垣) ▶ 地域のうつりかわり ・4月 竜神中学校が新設開校 *約250名が転校 全国各地から豊田市へ集団就職 4,071人 ・6月 高橋公民館オープン ・7月 市とトヨタ自工が公害防止協定締結 老人福祉電話開設 ・8月 第1回市民民謡大会(駅前周辺) 名鉄豊田新線建設 ・11月 豊田市人口229,619人(11月1日現在) 豊田市民総合文化祭 豊田の歴史一万年展(於:郷土資料館) ・3月 消防署大林出張所オープン ▶ 日本のできごと ・4月 祝日の重なりを防ぐ祝日法改正 春闘史上初のゼネスト決行 ・7月 日航・KLM機乗っ取り事件 ・8月 金大中事件 ・10月 江崎玲於奈氏ノーベル物理学賞 ・11月 石油危機と消費規制 トイレットペーパーパニック 熊本の太洋デパート火災で大惨事 ・1月 電力・石油の使用節減強化 ・3月 小野田元少尉 救出成功 ▶ 世界のできごと ・5月 西アフリカ干ばつ ウォーターゲート事件 米上院公聴会で問題化 ・6月 米・ソ会談(ニクソン−ブレジネフ) ・7月 ベンガジ空港でハイジャック ・8月 中国共産党十全体会 ・9月 クーデター(チリ) ・10月 第4次中東戦争 学生騒動 内閣を倒す(タイ) ・1月 日本の経済侵略に怒り(ビルマ) ・3月 エアバス墜落(パリ郊外) ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 東京の国鉄渋谷駅コインロッカーに赤ちゃんの死体が発見されたのに続いて、同様の事件が多発、「未婚の母」が話題になるとともに、赤ちゃんの受難時代でした。 6月には北海道でマグニチュード7.2の「根室地震」が起きて、世の中に不安な影を落としました。 主婦たちがトイレットペーパーを買い急ぎ、いわゆる石油ショックによるトイレットペーパーパニックが起こった年でもありました。その中で、人々の人気を集めたのは、競馬界のハイセーコーの活躍でした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「ゆずりあう心を」 *第7代 森田 校長 雨後校庭に立つと、創立当時学区の方たちが総動員で各字から自慢の樹々を持ちよって植えてくださったたくさんの樹木が、あるいは大木になり、あるいはよい枝ぶりになり、あるいは見事な花をいっぱい咲かせています。そして、各教師や運動場では、千人の生徒が真剣な眼差しで勉強に取り組んでおります。 ここまでにしてくださった歴代の諸先生、PTAの方々、そして卒業生の生徒諸君に、心から厚くお礼申し上げます。縁あってこの懐かしいふる里の学校に戻った私は今、この伝統ある歴史を傷つけないよう、最後のご奉公をしようと心を新たにしています。 ここで生徒諸君にも一つ二つ希望を述べてみたい。「鉄は熱い中にうて」といわれるが、諸君は今真っ赤に焼けた鉄である。鋳型にはめられて「鋳物」になるか、焼いてはたたき、焼いては鍛えられる「鋼鉄」になるかは、諸君の決意如何にある。 故ケネディ―大統領が就任の時に「国家が諸君に何をしてくれるかではなく、諸君が国家に何をもって貢献することができるのか、自ら問え」と言っているが、この積極性こそ、今、諸君に臨みたい。 次に望みたいことは「自己中心を捨てよう」ということです。それは、今までは若者も大人もあまりにも自分というものを中心に、ものを判断し行動してきたようである。世の中は今や共存時代へと移行しています。一人の人間が生きていくということは、誰かの犠牲の上に生きることではなく、みんなが生きるその中で一緒に生きることでなければなりません。そのためには、「ゆずりあう」心が大切です。そしてこそ、他人も幸せ、自分も幸せであります。仲良く楽しい学校にしましょう。 「座右の銘を持とう」 *第11代PTA会長 高岡中学校も創立されて以来もう30年、高岡地区という質実剛健の気風と、恵まれた風土に支えられ、義務教育の最終学府としてますますその内容を充実し、前途有為な若者を多く育てあげてきた。私はどこの中学校も同様な過程を経て今日に至っているということを十分承知の上で、なお高岡中学校を他地区にない特別によい学校だと思いたいし、絶対にそうしなければならないというのが、私たちの義務とさえ考えている。 昭和48年3月、PTAの会長を指名された時、私は一種の使命感を感じた。それは教育の実務と実行を推進し向上させる上で、学校の内外を問わず、生徒に接するすべての人間・風物・事象は、即直ちに有能な教育者であり、教材でなければならないと思ったからだ。ある時には生徒をりっぱに感化する教育者であり、ある時にはやさしく慰める自然の風物がそこになければならないと思ったからだ。思い半ばにして後任者に願いを托したが、年を経た今日も、その考え方は変わっていない。 人気も終わりに近い卒業式の日、祝辞で生徒諸君に、「人生の座右の銘を持とう」と強調した記憶がある。私たちが接した尊敬する人々には、形容しがたいおくゆかしさと漂う尊厳さを感じた経験が誰でもあると思う。私はそれらの全ては、その人の内に秘める強固な精神による自己研鑽とそれをしなければならなかったその人特有の環境があったからだと信じて疑わない。個々に銘記する「座右の銘」は、個人を含め、社会連帯の責任における教育環境の確立という社会の動輪に対して欠くことのできぬもう一方の重要な動輪であると確信している。 私の座右の銘は20歳の夏、「死して惜しまれる人となれ」と決めて以来、事あるごとに慰めの言葉となり、𠮟責の言葉となり、激励の言葉となって生き続けてきた。私には将来に向かってさらに重要な「座右の銘」となって生き続けるであろうと思う。 「別れは船出」 *第1回竜神中卒業生 もう、あれから4年という歳月が過ぎ去ろうとしている。あの時 −高岡から竜神に別れた日− 私の心の中に、なつかしい思い出の一つとなって刻み込まれていることである。それを何かにたとえるとするならば、一つの新しい船出だと思う。私たちに与えられた『別れの船出』なのである。 ちょうど今から5年ほど前、「高岡中学校から新しい分校ができる」という噂が広がった。その噂が、現実となった時の驚きを、一体、どのように表現したらよいのだろうか。毎朝6時に目を覚まし、2年間通い続けたこの道、今まで培われてきた学校生活、全てが無駄になってしまうようで、無性に腹立たしく感じられた。その上、親しい友とも別れなければならない、と強制的に決められてしまったし、新しい未知の学校へ転入することは大きな不安となって、私の上にのしかかっていた。言い尽くせないほどの不満のため、家に帰っても不平ばかり言っていたのを思い出す。そんな中で、各学年主催の「お別れ会」が開かれ、全校生徒の「手の塔」も記念に作られた。こうして、新学期が始まると同時に新しい学校竜神の3年生として、希望と寂しさを抱きながら別れて行ったのである。 別れた友と会わぬまま待望の高岡・竜神の合同修学旅行がやってきた。「うれしかった」―― お互いの学校の親交会でムードが盛り上がり、夢中で話をし合った。この喜びは、今も忘れることができないし、永遠に忘れるべきではないと思う。 今、あれから4年後、私は、新しく生まれた竜神中学校の第1期生として卒業した。一本の糸をたぐり寄せるように思い起こすと、この思い出のすべてが、高岡との別れにつながっている。 すばらしい船出は、今も、私の胸に……。 最後にひとこと。『高岡中学校、30周年、おめでとう』 「中学の思い出」 *48年度卒業生(高中だよりより) 逢妻男川のほとりの小高い丘にわれわれの高岡中学校があります。昨年新設した竜神中学校にかなりの生徒が移動したにもかかわらず、なお、千余人の生徒数を持つジャンボ校です。この高岡中学校と聞いて、まず思い出されるのがクラブ活動です。今年は竜神中の新設などで思いどおりの成績が得られなかったのは残念ですが、毎年上位入賞するその実力は市内の中学校に恐れられています。 また、クラブの面だけでなく学習の面でもこれに劣りません。自主学習の徹底で進学率の高いことは知ってのとおりです。そして、生徒会活動の面では、体育大会、文化祭、球技大会など、学校行事のほとんどが生徒自身の手で主体的に計画運営されています。 われわれ高中生は、学習とクラブの両立をたてまえとし、「質実剛健」の校風のもとに「自立的自主的な人間」、「健康で教養の高い人間」、「よい社会人に」と3つの目標に向かって日々躍進を続けています。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…世の中の様子・トイレットペーパーパニック ・中…世の中の様子・第1回市民民踊大会 ・下…世の中の様子・豊田市とトヨタ自工の公害防止協定 ★シリーズ 高岡中の歴史 31-5
令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その31】-5 *高岡中学校開校27年目 昭和48年度(1973年〜1974年) 校長:森田 校長(第7代) 生徒数:1,010人(男子:513人 女子:497人) 教員数:42人 ▶ 学校のうごき ・4月 森田 氏 第7代校長に就任 ・5月 写生大会(午前)・陸上記録会(午後)、心電図測定 ・6月 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年)、県教委体育指導訪問 ・7月 プール竣工・プール開き *教育大生4名模範泳法 西三大会ハンドボール会場(本校) ・8月 キャンプ(2年:夕森)、蛍光灯工事(4,5棟) ・10月 市陸上大会(トヨタ自工グラウンド) 遠足 *1年:洲原池、2年:祐福寺、3年:三好池 海外研修派遣・石川巖教諭、体育倉庫内壁修理 ・11月 市長距離継走大会・男女優勝 ・12月 初代加藤倉次郎校長叙勲祝賀会 ・3月 卒業記念除幕式(校門付近石垣) ▶ 地域のうつりかわり ・4月 竜神中学校が新設開校 *約250名が転校 全国各地から豊田市へ集団就職 4,071人 ・6月 高橋公民館オープン ・7月 市とトヨタ自工が公害防止協定締結 老人福祉電話開設 ・8月 第1回市民民謡大会(駅前周辺) 名鉄豊田新線建設 ・11月 豊田市人口229,619人(11月1日現在) 豊田市民総合文化祭 豊田の歴史一万年展(於:郷土資料館) ・3月 消防署大林出張所オープン ▶ 日本のできごと ・4月 祝日の重なりを防ぐ祝日法改正 春闘史上初のゼネスト決行 ・7月 日航・KLM機乗っ取り事件 ・8月 金大中事件 ・10月 江崎玲於奈氏ノーベル物理学賞 ・11月 石油危機と消費規制 トイレットペーパーパニック 熊本の太洋デパート火災で大惨事 ・1月 電力・石油の使用節減強化 ・3月 小野田元少尉 救出成功 ▶ 世界のできごと ・5月 西アフリカ干ばつ ウォーターゲート事件 米上院公聴会で問題化 ・6月 米・ソ会談(ニクソン−ブレジネフ) ・7月 ベンガジ空港でハイジャック ・8月 中国共産党十全体会 ・9月 クーデター(チリ) ・10月 第4次中東戦争 学生騒動 内閣を倒す(タイ) ・1月 日本の経済侵略に怒り(ビルマ) ・3月 エアバス墜落(パリ郊外) ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 東京の国鉄渋谷駅コインロッカーに赤ちゃんの死体が発見されたのに続いて、同様の事件が多発、「未婚の母」が話題になるとともに、赤ちゃんの受難時代でした。 6月には北海道でマグニチュード7.2の「根室地震」が起きて、世の中に不安な影を落としました。 主婦たちがトイレットペーパーを買い急ぎ、いわゆる石油ショックによるトイレットペーパーパニックが起こった年でもありました。その中で、人々の人気を集めたのは、競馬界のハイセーコーの活躍でした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「ゆずりあう心を」 *第7代 森田 校長 雨後校庭に立つと、創立当時学区の方たちが総動員で各字から自慢の樹々を持ちよって植えてくださったたくさんの樹木が、あるいは大木になり、あるいはよい枝ぶりになり、あるいは見事な花をいっぱい咲かせています。そして、各教師や運動場では、千人の生徒が真剣な眼差しで勉強に取り組んでおります。 ここまでにしてくださった歴代の諸先生、PTAの方々、そして卒業生の生徒諸君に、心から厚くお礼申し上げます。縁あってこの懐かしいふる里の学校に戻った私は今、この伝統ある歴史を傷つけないよう、最後のご奉公をしようと心を新たにしています。 ここで生徒諸君にも一つ二つ希望を述べてみたい。「鉄は熱い中にうて」といわれるが、諸君は今真っ赤に焼けた鉄である。鋳型にはめられて「鋳物」になるか、焼いてはたたき、焼いては鍛えられる「鋼鉄」になるかは、諸君の決意如何にある。 故ケネディ―大統領が就任の時に「国家が諸君に何をしてくれるかではなく、諸君が国家に何をもって貢献することができるのか、自ら問え」と言っているが、この積極性こそ、今、諸君に臨みたい。 次に望みたいことは「自己中心を捨てよう」ということです。それは、今までは若者も大人もあまりにも自分というものを中心に、ものを判断し行動してきたようである。世の中は今や共存時代へと移行しています。一人の人間が生きていくということは、誰かの犠牲の上に生きることではなく、みんなが生きるその中で一緒に生きることでなければなりません。そのためには、「ゆずりあう」心が大切です。そしてこそ、他人も幸せ、自分も幸せであります。仲良く楽しい学校にしましょう。 「座右の銘を持とう」 *第11代PTA会長 高岡中学校も創立されて以来もう30年、高岡地区という質実剛健の気風と、恵まれた風土に支えられ、義務教育の最終学府としてますますその内容を充実し、前途有為な若者を多く育てあげてきた。私はどこの中学校も同様な過程を経て今日に至っているということを十分承知の上で、なお高岡中学校を他地区にない特別によい学校だと思いたいし、絶対にそうしなければならないというのが、私たちの義務とさえ考えている。 昭和48年3月、PTAの会長を指名された時、私は一種の使命感を感じた。それは教育の実務と実行を推進し向上させる上で、学校の内外を問わず、生徒に接するすべての人間・風物・事象は、即直ちに有能な教育者であり、教材でなければならないと思ったからだ。ある時には生徒をりっぱに感化する教育者であり、ある時にはやさしく慰める自然の風物がそこになければならないと思ったからだ。思い半ばにして後任者に願いを托したが、年を経た今日も、その考え方は変わっていない。 人気も終わりに近い卒業式の日、祝辞で生徒諸君に、「人生の座右の銘を持とう」と強調した記憶がある。私たちが接した尊敬する人々には、形容しがたいおくゆかしさと漂う尊厳さを感じた経験が誰でもあると思う。私はそれらの全ては、その人の内に秘める強固な精神による自己研鑽とそれをしなければならなかったその人特有の環境があったからだと信じて疑わない。個々に銘記する「座右の銘」は、個人を含め、社会連帯の責任における教育環境の確立という社会の動輪に対して欠くことのできぬもう一方の重要な動輪であると確信している。 私の座右の銘は20歳の夏、「死して惜しまれる人となれ」と決めて以来、事あるごとに慰めの言葉となり、𠮟責の言葉となり、激励の言葉となって生き続けてきた。私には将来に向かってさらに重要な「座右の銘」となって生き続けるであろうと思う。 「別れは船出」 *第1回竜神中卒業生 もう、あれから4年という歳月が過ぎ去ろうとしている。あの時 −高岡から竜神に別れた日− 私の心の中に、なつかしい思い出の一つとなって刻み込まれていることである。それを何かにたとえるとするならば、一つの新しい船出だと思う。私たちに与えられた『別れの船出』なのである。 ちょうど今から5年ほど前、「高岡中学校から新しい分校ができる」という噂が広がった。その噂が、現実となった時の驚きを、一体、どのように表現したらよいのだろうか。毎朝6時に目を覚まし、2年間通い続けたこの道、今まで培われてきた学校生活、全てが無駄になってしまうようで、無性に腹立たしく感じられた。その上、親しい友とも別れなければならない、と強制的に決められてしまったし、新しい未知の学校へ転入することは大きな不安となって、私の上にのしかかっていた。言い尽くせないほどの不満のため、家に帰っても不平ばかり言っていたのを思い出す。そんな中で、各学年主催の「お別れ会」が開かれ、全校生徒の「手の塔」も記念に作られた。こうして、新学期が始まると同時に新しい学校竜神の3年生として、希望と寂しさを抱きながら別れて行ったのである。 別れた友と会わぬまま待望の高岡・竜神の合同修学旅行がやってきた。「うれしかった」―― お互いの学校の親交会でムードが盛り上がり、夢中で話をし合った。この喜びは、今も忘れることができないし、永遠に忘れるべきではないと思う。 今、あれから4年後、私は、新しく生まれた竜神中学校の第1期生として卒業した。一本の糸をたぐり寄せるように思い起こすと、この思い出のすべてが、高岡との別れにつながっている。 すばらしい船出は、今も、私の胸に……。 最後にひとこと。『高岡中学校、30周年、おめでとう』 「中学の思い出」 *48年度卒業生(高中だよりより) 逢妻男川のほとりの小高い丘にわれわれの高岡中学校があります。昨年新設した竜神中学校にかなりの生徒が移動したにもかかわらず、なお、千余人の生徒数を持つジャンボ校です。この高岡中学校と聞いて、まず思い出されるのがクラブ活動です。今年は竜神中の新設などで思いどおりの成績が得られなかったのは残念ですが、毎年上位入賞するその実力は市内の中学校に恐れられています。 また、クラブの面だけでなく学習の面でもこれに劣りません。自主学習の徹底で進学率の高いことは知ってのとおりです。そして、生徒会活動の面では、体育大会、文化祭、球技大会など、学校行事のほとんどが生徒自身の手で主体的に計画運営されています。 われわれ高中生は、学習とクラブの両立をたてまえとし、「質実剛健」の校風のもとに「自立的自主的な人間」、「健康で教養の高い人間」、「よい社会人に」と3つの目標に向かって日々躍進を続けています。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…竜神中との別れ・友情のシンボル「1300の塔」 ・下…竜神中開校式 ★シリーズ 高岡中の歴史 31-4
令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その31】-4 *高岡中学校開校27年目 昭和48年度(1973年〜1974年) 校長:森田 校長(第7代) 生徒数:1,010人(男子:513人 女子:497人) 教員数:42人 ▶ 学校のうごき ・4月 森田 氏 第7代校長に就任 ・5月 写生大会(午前)・陸上記録会(午後)、心電図測定 ・6月 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年)、県教委体育指導訪問 ・7月 プール竣工・プール開き *教育大生4名模範泳法 西三大会ハンドボール会場(本校) ・8月 キャンプ(2年:夕森)、蛍光灯工事(4,5棟) ・10月 市陸上大会(トヨタ自工グラウンド) 遠足 *1年:洲原池、2年:祐福寺、3年:三好池 海外研修派遣・石川巖教諭、体育倉庫内壁修理 ・11月 市長距離継走大会・男女優勝 ・12月 初代加藤倉次郎校長叙勲祝賀会 ・3月 卒業記念除幕式(校門付近石垣) ▶ 地域のうつりかわり ・4月 竜神中学校が新設開校 *約250名が転校 全国各地から豊田市へ集団就職 4,071人 ・6月 高橋公民館オープン ・7月 市とトヨタ自工が公害防止協定締結 老人福祉電話開設 ・8月 第1回市民民謡大会(駅前周辺) 名鉄豊田新線建設 ・11月 豊田市人口229,619人(11月1日現在) 豊田市民総合文化祭 豊田の歴史一万年展(於:郷土資料館) ・3月 消防署大林出張所オープン ▶ 日本のできごと ・4月 祝日の重なりを防ぐ祝日法改正 春闘史上初のゼネスト決行 ・7月 日航・KLM機乗っ取り事件 ・8月 金大中事件 ・10月 江崎玲於奈氏ノーベル物理学賞 ・11月 石油危機と消費規制 トイレットペーパーパニック 熊本の太洋デパート火災で大惨事 ・1月 電力・石油の使用節減強化 ・3月 小野田元少尉 救出成功 ▶ 世界のできごと ・5月 西アフリカ干ばつ ウォーターゲート事件 米上院公聴会で問題化 ・6月 米・ソ会談(ニクソン−ブレジネフ) ・7月 ベンガジ空港でハイジャック ・8月 中国共産党十全体会 ・9月 クーデター(チリ) ・10月 第4次中東戦争 学生騒動 内閣を倒す(タイ) ・1月 日本の経済侵略に怒り(ビルマ) ・3月 エアバス墜落(パリ郊外) ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 東京の国鉄渋谷駅コインロッカーに赤ちゃんの死体が発見されたのに続いて、同様の事件が多発、「未婚の母」が話題になるとともに、赤ちゃんの受難時代でした。 6月には北海道でマグニチュード7.2の「根室地震」が起きて、世の中に不安な影を落としました。 主婦たちがトイレットペーパーを買い急ぎ、いわゆる石油ショックによるトイレットペーパーパニックが起こった年でもありました。その中で、人々の人気を集めたのは、競馬界のハイセーコーの活躍でした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「ゆずりあう心を」 *第7代 森田 校長 雨後校庭に立つと、創立当時学区の方たちが総動員で各字から自慢の樹々を持ちよって植えてくださったたくさんの樹木が、あるいは大木になり、あるいはよい枝ぶりになり、あるいは見事な花をいっぱい咲かせています。そして、各教師や運動場では、千人の生徒が真剣な眼差しで勉強に取り組んでおります。 ここまでにしてくださった歴代の諸先生、PTAの方々、そして卒業生の生徒諸君に、心から厚くお礼申し上げます。縁あってこの懐かしいふる里の学校に戻った私は今、この伝統ある歴史を傷つけないよう、最後のご奉公をしようと心を新たにしています。 ここで生徒諸君にも一つ二つ希望を述べてみたい。「鉄は熱い中にうて」といわれるが、諸君は今真っ赤に焼けた鉄である。鋳型にはめられて「鋳物」になるか、焼いてはたたき、焼いては鍛えられる「鋼鉄」になるかは、諸君の決意如何にある。 故ケネディ―大統領が就任の時に「国家が諸君に何をしてくれるかではなく、諸君が国家に何をもって貢献することができるのか、自ら問え」と言っているが、この積極性こそ、今、諸君に臨みたい。 次に望みたいことは「自己中心を捨てよう」ということです。それは、今までは若者も大人もあまりにも自分というものを中心に、ものを判断し行動してきたようである。世の中は今や共存時代へと移行しています。一人の人間が生きていくということは、誰かの犠牲の上に生きることではなく、みんなが生きるその中で一緒に生きることでなければなりません。そのためには、「ゆずりあう」心が大切です。そしてこそ、他人も幸せ、自分も幸せであります。仲良く楽しい学校にしましょう。 「座右の銘を持とう」 *第11代PTA会長 高岡中学校も創立されて以来もう30年、高岡地区という質実剛健の気風と、恵まれた風土に支えられ、義務教育の最終学府としてますますその内容を充実し、前途有為な若者を多く育てあげてきた。私はどこの中学校も同様な過程を経て今日に至っているということを十分承知の上で、なお高岡中学校を他地区にない特別によい学校だと思いたいし、絶対にそうしなければならないというのが、私たちの義務とさえ考えている。 昭和48年3月、PTAの会長を指名された時、私は一種の使命感を感じた。それは教育の実務と実行を推進し向上させる上で、学校の内外を問わず、生徒に接するすべての人間・風物・事象は、即直ちに有能な教育者であり、教材でなければならないと思ったからだ。ある時には生徒をりっぱに感化する教育者であり、ある時にはやさしく慰める自然の風物がそこになければならないと思ったからだ。思い半ばにして後任者に願いを托したが、年を経た今日も、その考え方は変わっていない。 人気も終わりに近い卒業式の日、祝辞で生徒諸君に、「人生の座右の銘を持とう」と強調した記憶がある。私たちが接した尊敬する人々には、形容しがたいおくゆかしさと漂う尊厳さを感じた経験が誰でもあると思う。私はそれらの全ては、その人の内に秘める強固な精神による自己研鑽とそれをしなければならなかったその人特有の環境があったからだと信じて疑わない。個々に銘記する「座右の銘」は、個人を含め、社会連帯の責任における教育環境の確立という社会の動輪に対して欠くことのできぬもう一方の重要な動輪であると確信している。 私の座右の銘は20歳の夏、「死して惜しまれる人となれ」と決めて以来、事あるごとに慰めの言葉となり、𠮟責の言葉となり、激励の言葉となって生き続けてきた。私には将来に向かってさらに重要な「座右の銘」となって生き続けるであろうと思う。 「別れは船出」 *第1回竜神中卒業生 もう、あれから4年という歳月が過ぎ去ろうとしている。あの時 −高岡から竜神に別れた日− 私の心の中に、なつかしい思い出の一つとなって刻み込まれていることである。それを何かにたとえるとするならば、一つの新しい船出だと思う。私たちに与えられた『別れの船出』なのである。 ちょうど今から5年ほど前、「高岡中学校から新しい分校ができる」という噂が広がった。その噂が、現実となった時の驚きを、一体、どのように表現したらよいのだろうか。毎朝6時に目を覚まし、2年間通い続けたこの道、今まで培われてきた学校生活、全てが無駄になってしまうようで、無性に腹立たしく感じられた。その上、親しい友とも別れなければならない、と強制的に決められてしまったし、新しい未知の学校へ転入することは大きな不安となって、私の上にのしかかっていた。言い尽くせないほどの不満のため、家に帰っても不平ばかり言っていたのを思い出す。そんな中で、各学年主催の「お別れ会」が開かれ、全校生徒の「手の塔」も記念に作られた。こうして、新学期が始まると同時に新しい学校竜神の3年生として、希望と寂しさを抱きながら別れて行ったのである。 別れた友と会わぬまま待望の高岡・竜神の合同修学旅行がやってきた。「うれしかった」―― お互いの学校の親交会でムードが盛り上がり、夢中で話をし合った。この喜びは、今も忘れることができないし、永遠に忘れるべきではないと思う。 今、あれから4年後、私は、新しく生まれた竜神中学校の第1期生として卒業した。一本の糸をたぐり寄せるように思い起こすと、この思い出のすべてが、高岡との別れにつながっている。 すばらしい船出は、今も、私の胸に……。 最後にひとこと。『高岡中学校、30周年、おめでとう』 「中学の思い出」 *48年度卒業生(高中だよりより) 逢妻男川のほとりの小高い丘にわれわれの高岡中学校があります。昨年新設した竜神中学校にかなりの生徒が移動したにもかかわらず、なお、千余人の生徒数を持つジャンボ校です。この高岡中学校と聞いて、まず思い出されるのがクラブ活動です。今年は竜神中の新設などで思いどおりの成績が得られなかったのは残念ですが、毎年上位入賞するその実力は市内の中学校に恐れられています。 また、クラブの面だけでなく学習の面でもこれに劣りません。自主学習の徹底で進学率の高いことは知ってのとおりです。そして、生徒会活動の面では、体育大会、文化祭、球技大会など、学校行事のほとんどが生徒自身の手で主体的に計画運営されています。 われわれ高中生は、学習とクラブの両立をたてまえとし、「質実剛健」の校風のもとに「自立的自主的な人間」、「健康で教養の高い人間」、「よい社会人に」と3つの目標に向かって日々躍進を続けています。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…クラス写真(3年4組) ・下…クラス写真(3年5組) ★シリーズ 高岡中の歴史 31-3
令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その31】-3 *高岡中学校開校27年目 昭和48年度(1973年〜1974年) 校長:森田 校長(第7代) 生徒数:1,010人(男子:513人 女子:497人) 教員数:42人 ▶ 学校のうごき ・4月 森田 氏 第7代校長に就任 ・5月 写生大会(午前)・陸上記録会(午後)、心電図測定 ・6月 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年)、県教委体育指導訪問 ・7月 プール竣工・プール開き *教育大生4名模範泳法 西三大会ハンドボール会場(本校) ・8月 キャンプ(2年:夕森)、蛍光灯工事(4,5棟) ・10月 市陸上大会(トヨタ自工グラウンド) 遠足 *1年:洲原池、2年:祐福寺、3年:三好池 海外研修派遣・石川巖教諭、体育倉庫内壁修理 ・11月 市長距離継走大会・男女優勝 ・12月 初代加藤倉次郎校長叙勲祝賀会 ・3月 卒業記念除幕式(校門付近石垣) ▶ 地域のうつりかわり ・4月 竜神中学校が新設開校 *約250名が転校 全国各地から豊田市へ集団就職 4,071人 ・6月 高橋公民館オープン ・7月 市とトヨタ自工が公害防止協定締結 老人福祉電話開設 ・8月 第1回市民民謡大会(駅前周辺) 名鉄豊田新線建設 ・11月 豊田市人口229,619人(11月1日現在) 豊田市民総合文化祭 豊田の歴史一万年展(於:郷土資料館) ・3月 消防署大林出張所オープン ▶ 日本のできごと ・4月 祝日の重なりを防ぐ祝日法改正 春闘史上初のゼネスト決行 ・7月 日航・KLM機乗っ取り事件 ・8月 金大中事件 ・10月 江崎玲於奈氏ノーベル物理学賞 ・11月 石油危機と消費規制 トイレットペーパーパニック 熊本の太洋デパート火災で大惨事 ・1月 電力・石油の使用節減強化 ・3月 小野田元少尉 救出成功 ▶ 世界のできごと ・5月 西アフリカ干ばつ ウォーターゲート事件 米上院公聴会で問題化 ・6月 米・ソ会談(ニクソン−ブレジネフ) ・7月 ベンガジ空港でハイジャック ・8月 中国共産党十全体会 ・9月 クーデター(チリ) ・10月 第4次中東戦争 学生騒動 内閣を倒す(タイ) ・1月 日本の経済侵略に怒り(ビルマ) ・3月 エアバス墜落(パリ郊外) ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 東京の国鉄渋谷駅コインロッカーに赤ちゃんの死体が発見されたのに続いて、同様の事件が多発、「未婚の母」が話題になるとともに、赤ちゃんの受難時代でした。 6月には北海道でマグニチュード7.2の「根室地震」が起きて、世の中に不安な影を落としました。 主婦たちがトイレットペーパーを買い急ぎ、いわゆる石油ショックによるトイレットペーパーパニックが起こった年でもありました。その中で、人々の人気を集めたのは、競馬界のハイセーコーの活躍でした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「ゆずりあう心を」 *第7代 森田 校長 雨後校庭に立つと、創立当時学区の方たちが総動員で各字から自慢の樹々を持ちよって植えてくださったたくさんの樹木が、あるいは大木になり、あるいはよい枝ぶりになり、あるいは見事な花をいっぱい咲かせています。そして、各教師や運動場では、千人の生徒が真剣な眼差しで勉強に取り組んでおります。 ここまでにしてくださった歴代の諸先生、PTAの方々、そして卒業生の生徒諸君に、心から厚くお礼申し上げます。縁あってこの懐かしいふる里の学校に戻った私は今、この伝統ある歴史を傷つけないよう、最後のご奉公をしようと心を新たにしています。 ここで生徒諸君にも一つ二つ希望を述べてみたい。「鉄は熱い中にうて」といわれるが、諸君は今真っ赤に焼けた鉄である。鋳型にはめられて「鋳物」になるか、焼いてはたたき、焼いては鍛えられる「鋼鉄」になるかは、諸君の決意如何にある。 故ケネディ―大統領が就任の時に「国家が諸君に何をしてくれるかではなく、諸君が国家に何をもって貢献することができるのか、自ら問え」と言っているが、この積極性こそ、今、諸君に臨みたい。 次に望みたいことは「自己中心を捨てよう」ということです。それは、今までは若者も大人もあまりにも自分というものを中心に、ものを判断し行動してきたようである。世の中は今や共存時代へと移行しています。一人の人間が生きていくということは、誰かの犠牲の上に生きることではなく、みんなが生きるその中で一緒に生きることでなければなりません。そのためには、「ゆずりあう」心が大切です。そしてこそ、他人も幸せ、自分も幸せであります。仲良く楽しい学校にしましょう。 「座右の銘を持とう」 *第11代PTA会長 高岡中学校も創立されて以来もう30年、高岡地区という質実剛健の気風と、恵まれた風土に支えられ、義務教育の最終学府としてますますその内容を充実し、前途有為な若者を多く育てあげてきた。私はどこの中学校も同様な過程を経て今日に至っているということを十分承知の上で、なお高岡中学校を他地区にない特別によい学校だと思いたいし、絶対にそうしなければならないというのが、私たちの義務とさえ考えている。 昭和48年3月、PTAの会長を指名された時、私は一種の使命感を感じた。それは教育の実務と実行を推進し向上させる上で、学校の内外を問わず、生徒に接するすべての人間・風物・事象は、即直ちに有能な教育者であり、教材でなければならないと思ったからだ。ある時には生徒をりっぱに感化する教育者であり、ある時にはやさしく慰める自然の風物がそこになければならないと思ったからだ。思い半ばにして後任者に願いを托したが、年を経た今日も、その考え方は変わっていない。 人気も終わりに近い卒業式の日、祝辞で生徒諸君に、「人生の座右の銘を持とう」と強調した記憶がある。私たちが接した尊敬する人々には、形容しがたいおくゆかしさと漂う尊厳さを感じた経験が誰でもあると思う。私はそれらの全ては、その人の内に秘める強固な精神による自己研鑽とそれをしなければならなかったその人特有の環境があったからだと信じて疑わない。個々に銘記する「座右の銘」は、個人を含め、社会連帯の責任における教育環境の確立という社会の動輪に対して欠くことのできぬもう一方の重要な動輪であると確信している。 私の座右の銘は20歳の夏、「死して惜しまれる人となれ」と決めて以来、事あるごとに慰めの言葉となり、𠮟責の言葉となり、激励の言葉となって生き続けてきた。私には将来に向かってさらに重要な「座右の銘」となって生き続けるであろうと思う。 「別れは船出」 *第1回竜神中卒業生 もう、あれから4年という歳月が過ぎ去ろうとしている。あの時 −高岡から竜神に別れた日− 私の心の中に、なつかしい思い出の一つとなって刻み込まれていることである。それを何かにたとえるとするならば、一つの新しい船出だと思う。私たちに与えられた『別れの船出』なのである。 ちょうど今から5年ほど前、「高岡中学校から新しい分校ができる」という噂が広がった。その噂が、現実となった時の驚きを、一体、どのように表現したらよいのだろうか。毎朝6時に目を覚まし、2年間通い続けたこの道、今まで培われてきた学校生活、全てが無駄になってしまうようで、無性に腹立たしく感じられた。その上、親しい友とも別れなければならない、と強制的に決められてしまったし、新しい未知の学校へ転入することは大きな不安となって、私の上にのしかかっていた。言い尽くせないほどの不満のため、家に帰っても不平ばかり言っていたのを思い出す。そんな中で、各学年主催の「お別れ会」が開かれ、全校生徒の「手の塔」も記念に作られた。こうして、新学期が始まると同時に新しい学校竜神の3年生として、希望と寂しさを抱きながら別れて行ったのである。 別れた友と会わぬまま待望の高岡・竜神の合同修学旅行がやってきた。「うれしかった」―― お互いの学校の親交会でムードが盛り上がり、夢中で話をし合った。この喜びは、今も忘れることができないし、永遠に忘れるべきではないと思う。 今、あれから4年後、私は、新しく生まれた竜神中学校の第1期生として卒業した。一本の糸をたぐり寄せるように思い起こすと、この思い出のすべてが、高岡との別れにつながっている。 すばらしい船出は、今も、私の胸に……。 最後にひとこと。『高岡中学校、30周年、おめでとう』 「中学の思い出」 *48年度卒業生(高中だよりより) 逢妻男川のほとりの小高い丘にわれわれの高岡中学校があります。昨年新設した竜神中学校にかなりの生徒が移動したにもかかわらず、なお、千余人の生徒数を持つジャンボ校です。この高岡中学校と聞いて、まず思い出されるのがクラブ活動です。今年は竜神中の新設などで思いどおりの成績が得られなかったのは残念ですが、毎年上位入賞するその実力は市内の中学校に恐れられています。 また、クラブの面だけでなく学習の面でもこれに劣りません。自主学習の徹底で進学率の高いことは知ってのとおりです。そして、生徒会活動の面では、体育大会、文化祭、球技大会など、学校行事のほとんどが生徒自身の手で主体的に計画運営されています。 われわれ高中生は、学習とクラブの両立をたてまえとし、「質実剛健」の校風のもとに「自立的自主的な人間」、「健康で教養の高い人間」、「よい社会人に」と3つの目標に向かって日々躍進を続けています。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…プール竣工1 ・中…プール竣工2 ・下…プール竣工3 ★シリーズ 高岡中の歴史 31-2
令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その31】-2 *高岡中学校開校27年目 昭和48年度(1973年〜1974年) 校長:森田 校長(第7代) 生徒数:1,010人(男子:513人 女子:497人) 教員数:42人 ▶ 学校のうごき ・4月 森田 氏 第7代校長に就任 ・5月 写生大会(午前)・陸上記録会(午後)、心電図測定 ・6月 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年)、県教委体育指導訪問 ・7月 プール竣工・プール開き *教育大生4名模範泳法 西三大会ハンドボール会場(本校) ・8月 キャンプ(2年:夕森)、蛍光灯工事(4,5棟) ・10月 市陸上大会(トヨタ自工グラウンド) 遠足 *1年:洲原池、2年:祐福寺、3年:三好池 海外研修派遣・石川巖教諭、体育倉庫内壁修理 ・11月 市長距離継走大会・男女優勝 ・12月 初代加藤倉次郎校長叙勲祝賀会 ・3月 卒業記念除幕式(校門付近石垣) ▶ 地域のうつりかわり ・4月 竜神中学校が新設開校 *約250名が転校 全国各地から豊田市へ集団就職 4,071人 ・6月 高橋公民館オープン ・7月 市とトヨタ自工が公害防止協定締結 老人福祉電話開設 ・8月 第1回市民民謡大会(駅前周辺) 名鉄豊田新線建設 ・11月 豊田市人口229,619人(11月1日現在) 豊田市民総合文化祭 豊田の歴史一万年展(於:郷土資料館) ・3月 消防署大林出張所オープン ▶ 日本のできごと ・4月 祝日の重なりを防ぐ祝日法改正 春闘史上初のゼネスト決行 ・7月 日航・KLM機乗っ取り事件 ・8月 金大中事件 ・10月 江崎玲於奈氏ノーベル物理学賞 ・11月 石油危機と消費規制 トイレットペーパーパニック 熊本の太洋デパート火災で大惨事 ・1月 電力・石油の使用節減強化 ・3月 小野田元少尉 救出成功 ▶ 世界のできごと ・5月 西アフリカ干ばつ ウォーターゲート事件 米上院公聴会で問題化 ・6月 米・ソ会談(ニクソン−ブレジネフ) ・7月 ベンガジ空港でハイジャック ・8月 中国共産党十全体会 ・9月 クーデター(チリ) ・10月 第4次中東戦争 学生騒動 内閣を倒す(タイ) ・1月 日本の経済侵略に怒り(ビルマ) ・3月 エアバス墜落(パリ郊外) ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 東京の国鉄渋谷駅コインロッカーに赤ちゃんの死体が発見されたのに続いて、同様の事件が多発、「未婚の母」が話題になるとともに、赤ちゃんの受難時代でした。 6月には北海道でマグニチュード7.2の「根室地震」が起きて、世の中に不安な影を落としました。 主婦たちがトイレットペーパーを買い急ぎ、いわゆる石油ショックによるトイレットペーパーパニックが起こった年でもありました。その中で、人々の人気を集めたのは、競馬界のハイセーコーの活躍でした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「ゆずりあう心を」 *第7代 森田 校長 雨後校庭に立つと、創立当時学区の方たちが総動員で各字から自慢の樹々を持ちよって植えてくださったたくさんの樹木が、あるいは大木になり、あるいはよい枝ぶりになり、あるいは見事な花をいっぱい咲かせています。そして、各教師や運動場では、千人の生徒が真剣な眼差しで勉強に取り組んでおります。 ここまでにしてくださった歴代の諸先生、PTAの方々、そして卒業生の生徒諸君に、心から厚くお礼申し上げます。縁あってこの懐かしいふる里の学校に戻った私は今、この伝統ある歴史を傷つけないよう、最後のご奉公をしようと心を新たにしています。 ここで生徒諸君にも一つ二つ希望を述べてみたい。「鉄は熱い中にうて」といわれるが、諸君は今真っ赤に焼けた鉄である。鋳型にはめられて「鋳物」になるか、焼いてはたたき、焼いては鍛えられる「鋼鉄」になるかは、諸君の決意如何にある。 故ケネディ―大統領が就任の時に「国家が諸君に何をしてくれるかではなく、諸君が国家に何をもって貢献することができるのか、自ら問え」と言っているが、この積極性こそ、今、諸君に臨みたい。 次に望みたいことは「自己中心を捨てよう」ということです。それは、今までは若者も大人もあまりにも自分というものを中心に、ものを判断し行動してきたようである。世の中は今や共存時代へと移行しています。一人の人間が生きていくということは、誰かの犠牲の上に生きることではなく、みんなが生きるその中で一緒に生きることでなければなりません。そのためには、「ゆずりあう」心が大切です。そしてこそ、他人も幸せ、自分も幸せであります。仲良く楽しい学校にしましょう。 「座右の銘を持とう」 *第11代PTA会長 高岡中学校も創立されて以来もう30年、高岡地区という質実剛健の気風と、恵まれた風土に支えられ、義務教育の最終学府としてますますその内容を充実し、前途有為な若者を多く育てあげてきた。私はどこの中学校も同様な過程を経て今日に至っているということを十分承知の上で、なお高岡中学校を他地区にない特別によい学校だと思いたいし、絶対にそうしなければならないというのが、私たちの義務とさえ考えている。 昭和48年3月、PTAの会長を指名された時、私は一種の使命感を感じた。それは教育の実務と実行を推進し向上させる上で、学校の内外を問わず、生徒に接するすべての人間・風物・事象は、即直ちに有能な教育者であり、教材でなければならないと思ったからだ。ある時には生徒をりっぱに感化する教育者であり、ある時にはやさしく慰める自然の風物がそこになければならないと思ったからだ。思い半ばにして後任者に願いを托したが、年を経た今日も、その考え方は変わっていない。 人気も終わりに近い卒業式の日、祝辞で生徒諸君に、「人生の座右の銘を持とう」と強調した記憶がある。私たちが接した尊敬する人々には、形容しがたいおくゆかしさと漂う尊厳さを感じた経験が誰でもあると思う。私はそれらの全ては、その人の内に秘める強固な精神による自己研鑽とそれをしなければならなかったその人特有の環境があったからだと信じて疑わない。個々に銘記する「座右の銘」は、個人を含め、社会連帯の責任における教育環境の確立という社会の動輪に対して欠くことのできぬもう一方の重要な動輪であると確信している。 私の座右の銘は20歳の夏、「死して惜しまれる人となれ」と決めて以来、事あるごとに慰めの言葉となり、𠮟責の言葉となり、激励の言葉となって生き続けてきた。私には将来に向かってさらに重要な「座右の銘」となって生き続けるであろうと思う。 「別れは船出」 *第1回竜神中卒業生 もう、あれから4年という歳月が過ぎ去ろうとしている。あの時 −高岡から竜神に別れた日− 私の心の中に、なつかしい思い出の一つとなって刻み込まれていることである。それを何かにたとえるとするならば、一つの新しい船出だと思う。私たちに与えられた『別れの船出』なのである。 ちょうど今から5年ほど前、「高岡中学校から新しい分校ができる」という噂が広がった。その噂が、現実となった時の驚きを、一体、どのように表現したらよいのだろうか。毎朝6時に目を覚まし、2年間通い続けたこの道、今まで培われてきた学校生活、全てが無駄になってしまうようで、無性に腹立たしく感じられた。その上、親しい友とも別れなければならない、と強制的に決められてしまったし、新しい未知の学校へ転入することは大きな不安となって、私の上にのしかかっていた。言い尽くせないほどの不満のため、家に帰っても不平ばかり言っていたのを思い出す。そんな中で、各学年主催の「お別れ会」が開かれ、全校生徒の「手の塔」も記念に作られた。こうして、新学期が始まると同時に新しい学校竜神の3年生として、希望と寂しさを抱きながら別れて行ったのである。 別れた友と会わぬまま待望の高岡・竜神の合同修学旅行がやってきた。「うれしかった」―― お互いの学校の親交会でムードが盛り上がり、夢中で話をし合った。この喜びは、今も忘れることができないし、永遠に忘れるべきではないと思う。 今、あれから4年後、私は、新しく生まれた竜神中学校の第1期生として卒業した。一本の糸をたぐり寄せるように思い起こすと、この思い出のすべてが、高岡との別れにつながっている。 すばらしい船出は、今も、私の胸に……。 最後にひとこと。『高岡中学校、30周年、おめでとう』 「中学の思い出」 *48年度卒業生(高中だよりより) 逢妻男川のほとりの小高い丘にわれわれの高岡中学校があります。昨年新設した竜神中学校にかなりの生徒が移動したにもかかわらず、なお、千余人の生徒数を持つジャンボ校です。この高岡中学校と聞いて、まず思い出されるのがクラブ活動です。今年は竜神中の新設などで思いどおりの成績が得られなかったのは残念ですが、毎年上位入賞するその実力は市内の中学校に恐れられています。 また、クラブの面だけでなく学習の面でもこれに劣りません。自主学習の徹底で進学率の高いことは知ってのとおりです。そして、生徒会活動の面では、体育大会、文化祭、球技大会など、学校行事のほとんどが生徒自身の手で主体的に計画運営されています。 われわれ高中生は、学習とクラブの両立をたてまえとし、「質実剛健」の校風のもとに「自立的自主的な人間」、「健康で教養の高い人間」、「よい社会人に」と3つの目標に向かって日々躍進を続けています。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…第7代 森田校長 ・中…卒業記念石垣 ・下…当時の学校平面図 ★シリーズ 高岡中の歴史 31-1
令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その31】-1 *高岡中学校開校27年目 昭和48年度(1973年〜1974年) 校長:森田 校長(第7代) 生徒数:1,010人(男子:513人 女子:497人) 教員数:42人 ▶ 学校のうごき ・4月 森田 氏 第7代校長に就任 ・5月 写生大会(午前)・陸上記録会(午後)、心電図測定 ・6月 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年)、県教委体育指導訪問 ・7月 プール竣工・プール開き *教育大生4名模範泳法 西三大会ハンドボール会場(本校) ・8月 キャンプ(2年:夕森)、蛍光灯工事(4,5棟) ・10月 市陸上大会(トヨタ自工グラウンド) 遠足 *1年:洲原池、2年:祐福寺、3年:三好池 海外研修派遣・石川巖教諭、体育倉庫内壁修理 ・11月 市長距離継走大会・男女優勝 ・12月 初代加藤倉次郎校長叙勲祝賀会 ・3月 卒業記念除幕式(校門付近石垣) ▶ 地域のうつりかわり ・4月 竜神中学校が新設開校 *約250名が転校 全国各地から豊田市へ集団就職 4,071人 ・6月 高橋公民館オープン ・7月 市とトヨタ自工が公害防止協定締結 老人福祉電話開設 ・8月 第1回市民民謡大会(駅前周辺) 名鉄豊田新線建設 ・11月 豊田市人口229,619人(11月1日現在) 豊田市民総合文化祭 豊田の歴史一万年展(於:郷土資料館) ・3月 消防署大林出張所オープン ▶ 日本のできごと ・4月 祝日の重なりを防ぐ祝日法改正 春闘史上初のゼネスト決行 ・7月 日航・KLM機乗っ取り事件 ・8月 金大中事件 ・10月 江崎玲於奈氏ノーベル物理学賞 ・11月 石油危機と消費規制 トイレットペーパーパニック 熊本の太洋デパート火災で大惨事 ・1月 電力・石油の使用節減強化 ・3月 小野田元少尉 救出成功 ▶ 世界のできごと ・5月 西アフリカ干ばつ ウォーターゲート事件 米上院公聴会で問題化 ・6月 米・ソ会談(ニクソン−ブレジネフ) ・7月 ベンガジ空港でハイジャック ・8月 中国共産党十全体会 ・9月 クーデター(チリ) ・10月 第4次中東戦争 学生騒動 内閣を倒す(タイ) ・1月 日本の経済侵略に怒り(ビルマ) ・3月 エアバス墜落(パリ郊外) ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 東京の国鉄渋谷駅コインロッカーに赤ちゃんの死体が発見されたのに続いて、同様の事件が多発、「未婚の母」が話題になるとともに、赤ちゃんの受難時代でした。 6月には北海道でマグニチュード7.2の「根室地震」が起きて、世の中に不安な影を落としました。 主婦たちがトイレットペーパーを買い急ぎ、いわゆる石油ショックによるトイレットペーパーパニックが起こった年でもありました。その中で、人々の人気を集めたのは、競馬界のハイセーコーの活躍でした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「ゆずりあう心を」 *第7代 森田 校長 雨後校庭に立つと、創立当時学区の方たちが総動員で各字から自慢の樹々を持ちよって植えてくださったたくさんの樹木が、あるいは大木になり、あるいはよい枝ぶりになり、あるいは見事な花をいっぱい咲かせています。そして、各教師や運動場では、千人の生徒が真剣な眼差しで勉強に取り組んでおります。 ここまでにしてくださった歴代の諸先生、PTAの方々、そして卒業生の生徒諸君に、心から厚くお礼申し上げます。縁あってこの懐かしいふる里の学校に戻った私は今、この伝統ある歴史を傷つけないよう、最後のご奉公をしようと心を新たにしています。 ここで生徒諸君にも一つ二つ希望を述べてみたい。「鉄は熱い中にうて」といわれるが、諸君は今真っ赤に焼けた鉄である。鋳型にはめられて「鋳物」になるか、焼いてはたたき、焼いては鍛えられる「鋼鉄」になるかは、諸君の決意如何にある。 故ケネディ―大統領が就任の時に「国家が諸君に何をしてくれるかではなく、諸君が国家に何をもって貢献することができるのか、自ら問え」と言っているが、この積極性こそ、今、諸君に臨みたい。 次に望みたいことは「自己中心を捨てよう」ということです。それは、今までは若者も大人もあまりにも自分というものを中心に、ものを判断し行動してきたようである。世の中は今や共存時代へと移行しています。一人の人間が生きていくということは、誰かの犠牲の上に生きることではなく、みんなが生きるその中で一緒に生きることでなければなりません。そのためには、「ゆずりあう」心が大切です。そしてこそ、他人も幸せ、自分も幸せであります。仲良く楽しい学校にしましょう。 「座右の銘を持とう」 *第11代PTA会長 高岡中学校も創立されて以来もう30年、高岡地区という質実剛健の気風と、恵まれた風土に支えられ、義務教育の最終学府としてますますその内容を充実し、前途有為な若者を多く育てあげてきた。私はどこの中学校も同様な過程を経て今日に至っているということを十分承知の上で、なお高岡中学校を他地区にない特別によい学校だと思いたいし、絶対にそうしなければならないというのが、私たちの義務とさえ考えている。 昭和48年3月、PTAの会長を指名された時、私は一種の使命感を感じた。それは教育の実務と実行を推進し向上させる上で、学校の内外を問わず、生徒に接するすべての人間・風物・事象は、即直ちに有能な教育者であり、教材でなければならないと思ったからだ。ある時には生徒をりっぱに感化する教育者であり、ある時にはやさしく慰める自然の風物がそこになければならないと思ったからだ。思い半ばにして後任者に願いを托したが、年を経た今日も、その考え方は変わっていない。 人気も終わりに近い卒業式の日、祝辞で生徒諸君に、「人生の座右の銘を持とう」と強調した記憶がある。私たちが接した尊敬する人々には、形容しがたいおくゆかしさと漂う尊厳さを感じた経験が誰でもあると思う。私はそれらの全ては、その人の内に秘める強固な精神による自己研鑽とそれをしなければならなかったその人特有の環境があったからだと信じて疑わない。個々に銘記する「座右の銘」は、個人を含め、社会連帯の責任における教育環境の確立という社会の動輪に対して欠くことのできぬもう一方の重要な動輪であると確信している。 私の座右の銘は20歳の夏、「死して惜しまれる人となれ」と決めて以来、事あるごとに慰めの言葉となり、𠮟責の言葉となり、激励の言葉となって生き続けてきた。私には将来に向かってさらに重要な「座右の銘」となって生き続けるであろうと思う。 「別れは船出」 *第1回竜神中卒業生 もう、あれから4年という歳月が過ぎ去ろうとしている。あの時 −高岡から竜神に別れた日− 私の心の中に、なつかしい思い出の一つとなって刻み込まれていることである。それを何かにたとえるとするならば、一つの新しい船出だと思う。私たちに与えられた『別れの船出』なのである。 ちょうど今から5年ほど前、「高岡中学校から新しい分校ができる」という噂が広がった。その噂が、現実となった時の驚きを、一体、どのように表現したらよいのだろうか。毎朝6時に目を覚まし、2年間通い続けたこの道、今まで培われてきた学校生活、全てが無駄になってしまうようで、無性に腹立たしく感じられた。その上、親しい友とも別れなければならない、と強制的に決められてしまったし、新しい未知の学校へ転入することは大きな不安となって、私の上にのしかかっていた。言い尽くせないほどの不満のため、家に帰っても不平ばかり言っていたのを思い出す。そんな中で、各学年主催の「お別れ会」が開かれ、全校生徒の「手の塔」も記念に作られた。こうして、新学期が始まると同時に新しい学校竜神の3年生として、希望と寂しさを抱きながら別れて行ったのである。 別れた友と会わぬまま待望の高岡・竜神の合同修学旅行がやってきた。「うれしかった」―― お互いの学校の親交会でムードが盛り上がり、夢中で話をし合った。この喜びは、今も忘れることができないし、永遠に忘れるべきではないと思う。 今、あれから4年後、私は、新しく生まれた竜神中学校の第1期生として卒業した。一本の糸をたぐり寄せるように思い起こすと、この思い出のすべてが、高岡との別れにつながっている。 すばらしい船出は、今も、私の胸に……。 最後にひとこと。『高岡中学校、30周年、おめでとう』 「中学の思い出」 *48年度卒業生(高中だよりより) 逢妻男川のほとりの小高い丘にわれわれの高岡中学校があります。昨年新設した竜神中学校にかなりの生徒が移動したにもかかわらず、なお、千余人の生徒数を持つジャンボ校です。この高岡中学校と聞いて、まず思い出されるのがクラブ活動です。今年は竜神中の新設などで思いどおりの成績が得られなかったのは残念ですが、毎年上位入賞するその実力は市内の中学校に恐れられています。 また、クラブの面だけでなく学習の面でもこれに劣りません。自主学習の徹底で進学率の高いことは知ってのとおりです。そして、生徒会活動の面では、体育大会、文化祭、球技大会など、学校行事のほとんどが生徒自身の手で主体的に計画運営されています。 われわれ高中生は、学習とクラブの両立をたてまえとし、「質実剛健」の校風のもとに「自立的自主的な人間」、「健康で教養の高い人間」、「よい社会人に」と3つの目標に向かって日々躍進を続けています。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…クラス写真(3年1組) ・中…クラス写真(3年2組) ・下…クラス写真(3年3組) 11/9 今日の高岡中
昨日の天気から一転、雨の一日になりそうです。 昨日、校内の花壇で見つけた立派なアリの巣(写真下)。書き出した砂がきれいに盛られ、まるで芸術品です。 直径は20センチを超えるほどの大きさで、雨の合間に出来上がったことを考えると、本当に「よく働くなぁ」とつくづく感心させられます。 雨による影響が心配ですが、逆境にめげないアリの心の強さを見習っていきたいと思います。 昨日、若林東小、若林西小のそれぞれの運動会を参観させていただきました。どちらの小学校の運動会も見ごたえがあり、懸命に競技に取り組む児童の姿に元気をもらいました。また、6年生が応援や器具係として運動会を支えている様子も見ることができ、来年4月の入学がさらに楽しみになりました。 そして、いずれの会場でも中学生を見かけました。「校長先生、おはようございます! テスト勉強の気分転換で来ました!」と元気よく答えてくれたので、その言葉を信用したいと思います。 でも、その言葉以上にうれしかったことがあります。それは、運動会終了後に片付けを手伝っていた姿があったことです。小学校の先生からも、お礼の連絡が入ったほどです。 自分たちの成長を姿や行動で示す高中生。今後の活躍も期待したいと思います。 ということで … 今日からは、テスト勉強に本腰を入れていきましょう! 今日もステキな一日になりますように・・・
11/8 大成功!! 〜星コン〜 26
11/5(水)に開催された「星コン」。 生徒たちの特技・レベルの高いパフォーマンスをたくさん見ることができました。また、会場の温かい声援や盛り上がりの様子から、今年も大成功でした! 参観いただいたご家族・ご来賓のみなさま、ありがとうございました! 11/8 大成功!! 〜星コン〜 25
11/5(水)に開催された「星コン(=高岡の星コンテスト)」の様子をお届けします。 *熱狂的なファン(?)が推しの写真をパシャリ。 11/8 大成功!! 〜星コン〜 24
11/5(水)に開催された「星コン(=高岡の星コンテスト)」の様子をお届けします。 *ボランティアの生徒たちが、会場の片付けを行ってくれました。 11/8 大成功!! 〜星コン〜 23
11/5(水)に開催された「星コン(=高岡の星コンテスト)」の様子をお届けします。 *会場は終止笑顔と歓声で包まれました。 11/8 大成功!! 〜星コン〜 22
11/5(水)に開催された「星コン(=高岡の星コンテスト)」の様子をお届けします。 *会場は終止笑顔と歓声で包まれました。 11/8 大成功!! 〜星コン〜 21
11/5(水)に開催された「星コン(=高岡の星コンテスト)」の様子をお届けします。 *会場は終止笑顔と歓声で包まれました。 11/8 大成功!! 〜星コン〜 20
11/5(水)に開催された「星コン(=高岡の星コンテスト)」の様子をお届けします。 *和太鼓グループの演奏です。 11/8 大成功!! 〜星コン〜 19
11/5(水)に開催された「星コン(=高岡の星コンテスト)」の様子をお届けします。 *ソロでのダンスパフォーマンスです。 |
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