| 10/26 ■ジュニアクラブ■ 若林地区ふれあいまつり 2        10月26日(日)に若林交流館でふれあいまつりがありました。 ジュニアクラブの1・2年生の皆さんが、プラ板作りやゲームの補助、食品販売のお手伝いをしてくれました。小さな子に、プラ板の作り方を優しく教えてくれたり、素敵な笑顔で、お客さんの対応をしたりと大活躍でした。 実際に、ボランティアをしてくれた人に感想を聞くと、地域の人達から、優しく接してもらって嬉しかったことや、これから、もっと地域の人との交流を深めていきたいと感じている生徒さんが多かったです。 今日一日、地域に貢献してくれたジュニアクラブの生徒さんたちに感謝です。 10/26 ■ジュニアクラブ■ 若林地区ふれあいまつり 1            10月26日(日)に若林交流館でふれあいまつりがありました。 ジュニアクラブの1・2年生の皆さんが、プラ板作りやゲームの補助、食品販売のお手伝いをしてくれました。小さな子に、プラ板の作り方を優しく教えてくれたり、素敵な笑顔で、お客さんの対応をしたりと大活躍でした。 実際に、ボランティアをしてくれた人に感想を聞くと、地域の人達から、優しく接してもらって嬉しかったことや、これから、もっと地域の人との交流を深めていきたいと感じている生徒さんが多かったです。 今日一日、地域に貢献してくれたジュニアクラブの生徒さんたちに感謝です。 10/26 ■父母教師会■ 若林地区ふれあいまつり 3            本日、若林地区ふれあいまつりが開催されました。 父母教師会有志は、青少年育成会のブースで水風船釣りを盛り上げました! ジュニアクラブの生徒も続々と集まり、水風船作りと接客をお手伝い。水風船作りは難しく、大人も生徒たちもびしょ濡れになってました(笑) 教頭先生が挑戦! 生徒のアドバイスを受け、見事ゲットしました! 生徒たちは小さな子供たちには優しく寄り添い、お手伝いをしました。釣れた時に一緒に喜ぶ姿がとても微笑ましかったです。笑顔で帰って行く子供たちがとても印象的でした。 若林音頭は生徒たちも大人も踊って盛り上がり、じゃんけん大会は熱く闘い、父母教師会有志、生徒も豪華商品をゲット! 雨が降ったり止んだりの天気でしたが、大人も子供も笑顔が溢れた、とても楽しい一日でした。 地域のみなさんには本当に感謝です。 参加されたみなさん、お疲れさまでした! 10/26 ■父母教師会■ 若林地区ふれあいまつり 2            本日、若林地区ふれあいまつりが開催されました。 父母教師会有志は、青少年育成会のブースで水風船釣りを盛り上げました! ジュニアクラブの生徒も続々と集まり、水風船作りと接客をお手伝い。水風船作りは難しく、大人も生徒たちもびしょ濡れになってました(笑) 教頭先生が挑戦! 生徒のアドバイスを受け、見事ゲットしました! 生徒たちは小さな子供たちには優しく寄り添い、お手伝いをしました。釣れた時に一緒に喜ぶ姿がとても微笑ましかったです。笑顔で帰って行く子供たちがとても印象的でした。 若林音頭は生徒たちも大人も踊って盛り上がり、じゃんけん大会は熱く闘い、父母教師会有志、生徒も豪華商品をゲット! 雨が降ったり止んだりの天気でしたが、大人も子供も笑顔が溢れた、とても楽しい一日でした。 地域のみなさんには本当に感謝です。 参加されたみなさん、お疲れさまでした! 10/26 ■父母教師会■ 若林地区ふれあいまつり 1            本日、若林地区ふれあいまつりが開催されました。 父母教師会有志は、青少年育成会のブースで水風船釣りを盛り上げました! ジュニアクラブの生徒も続々と集まり、水風船作りと接客をお手伝い。水風船作りは難しく、大人も生徒たちもびしょ濡れになってました(笑) 教頭先生が挑戦! 生徒のアドバイスを受け、見事ゲットしました! 生徒たちは小さな子供たちには優しく寄り添い、お手伝いをしました。釣れた時に一緒に喜ぶ姿がとても微笑ましかったです。笑顔で帰って行く子供たちがとても印象的でした。 若林音頭は生徒たちも大人も踊って盛り上がり、じゃんけん大会は熱く闘い、父母教師会有志、生徒も豪華商品をゲット! 雨が降ったり止んだりの天気でしたが、大人も子供も笑顔が溢れた、とても楽しい一日でした。 地域のみなさんには本当に感謝です。 参加されたみなさん、お疲れさまでした! ★シリーズ 高岡中の歴史 29-17            令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-17 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…秋の遠足・2年時(祐福寺) ・中…夕森キャンプ・1年時(食事の準備) ・下…体育大会・3年時(応援風景) ★シリーズ 高岡中の歴史 29-16            令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-16 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…体育大会・表彰式 ・中…体育大会・スタート(女子) ・下…体育大会・高跳び(男子) ★シリーズ 高岡中の歴史 29-15        令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-15 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…修学旅行・鎌倉大仏前にて ・下…修学旅行・専用列車に乗り込む ★シリーズ 高岡中の歴史 29-14        令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-14 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…修学旅行・旅館での食事風景 ・下…修学旅行・大涌谷にて(引率の先生たち) ★シリーズ 高岡中の歴史 29-13        令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-13 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…技術棟新築工事・鍬入れ式 ・下…技術棟新築工事・パイル打ち ★シリーズ 高岡中の歴史 29-12        令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-12 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…開校記念駅伝大会・スタート! ・下…開校記念駅伝大会・力走中! ★シリーズ 高岡中の歴史 29-11            令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-11 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…クラス写真(3年7組) ・中…クラス写真(3年8組) ・下…クラス写真(3年9組) ★シリーズ 高岡中の歴史 29-10            令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-10 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…躍動する部活動・卓球部 ・中…躍動する部活動・水泳部 ・下…躍動する部活動・野球部 ★シリーズ 高岡中の歴史 29-9            令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-9 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…躍動する部活動・バレー部 ・中…躍動する部活動・ハンド部 ・下…躍動する部活動・柔道部 ★シリーズ 高岡中の歴史 29-8            令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-8 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…躍動する部活動・サッカー部 ・中…躍動する部活動・テニス部 ・下…躍動する部活動・バスケット部 ★シリーズ 高岡中の歴史 29-7            令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-7 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…生徒会・意見発表会1 ・中…生徒会・意見発表会2 ・下…生徒会・役員 ★シリーズ 高岡中の歴史 29-6            令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-6 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…クラス写真(3年4組) ・中…クラス写真(3年5組) ・下…クラス写真(3年6組) ★シリーズ 高岡中の歴史 29-5        令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-5 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…世の中の様子・天皇・皇后両陛下ヨーロッパご旅行 ・下…世の中の様子・高松塚古墳(極彩色壁画) ★シリーズ 高岡中の歴史 29-4        令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-4 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…世の中の様子・コンピュータ時代到来 ・下…世の中の様子・沖縄返還協定調印(守礼の門) ★シリーズ 高岡中の歴史 29-3            令和8年度に創立80年を迎える本校。 これまでの歴史を振り返りつつ、これからの高岡中学校の発展に向けて一緒に考えていけたら幸いです。 ■ 高岡中の歴史 【その29】-3 *高岡中学校開校25年目 昭和46年度(1971年〜1972年) 校長:戸軽 功次 校長(第6代) 生徒数:1,131人(男子:597人 女子:534人) 教員数:45人 ▶ 学校のうごき ・4月 戸軽功次氏 第6代校長に就任 ・5月 春季遠足、校内陸上大会、陸上競技選手選考会 ・6月 バッジテスト(全学年) 市陸上大会、刈谷南中交歓試合 ・7月 クラブ壮行会、西三大会 ・8月 県大会出場(女子ハンド) ・9月 生徒会役員と語る会・学校長 遠足(1年:伊良湖、2年:明治村) 修学旅行(3年) ・11月 ブロック音楽大会、ブロック教員親睦会 PTA優良校視察・鳳来中学校、文化祭(3日間) ・12月 技術科教室地鎮祭 ・2月 教審委員会 ▶ 地域のうつりかわり ・4月 豊田工業高校開校、豊田市人口 20万人突破 ・6月 矢作ダム完成 ・7月 高岡地区広場完成 ・8月 市体育館前広場にナイター設備完成 ・10月 古瀬間墓地公園完成 ・11月 市公害調査センター開所 ・12月 市電子計算機導入(総務部電子計算課) ・1月 若園小前に横断歩道橋完成 ・2月 堤小校区で交通安全パレード ▶ 日本のできごと ・5月 大久保清事件 ・6月 沖縄返還協定調印式 ・7月 東亜航空「ばんだい号」墜落 ・8月 東京株式ドルショックで史上最大の暴落 ・9月 全国で異常潮位 天皇・皇后両陛下ヨーロッパ親善旅行 ・2月 グアム島から横井庄一さん生還 冬季オリンピック札幌大会開催 連合赤軍浅間山荘事件 ・3月 山陽新幹線開通 高松塚古墳に極彩色壁画発見 ▶ 世界のできごと ・6月 ソユーズ11号の3名の飛行士死亡 ・7月 ベトナム秘密文書世界に反響 ニクソン大統領訪中・訪ソ計画発表 ・8月 ドル・ショック、南北朝鮮赤十字会談 ・10月 EC加盟決定(イギリス) ・11月 国連に復帰(中国) ・12月 ベルリン協定成立、インド・パキスタン戦争 ソウル大然閣ホテル火災 ・2月 ニクソン大統領訪中 ▶▶ 時代の概観 ▶▶ 群馬県で女性8人を殺害した大久保清事件が起こり、世の女性を震えさせました。7月には東亜国内航空の「ばんだい号」が函館市郊外で墜落、68人全員が死亡、さらに昭和47年2月には連合赤軍の「浅間山荘事件」と、天災・人災の多い日本でした。 昭和46年8月、ニクソン米大統領がドル防衛を発表し、「アメリカがくしゃみをすると日本がかぜをひく」といわれるほどの緊密な関係にあった我が国は、いわゆるニクソン・ショックにより株価は史上最大の暴落を演じました。 「恥ずかしながら…」という流行語を生んだ横井庄一さんがグアム島の密林から帰国したのは昭和47年2月のことでした。 *この年に関わる方が残した記録を紹介します。 「学区の教育熱」 *第6代校長 戸軽功次 氏 私が高中に赴任した昭和35年は、伊勢湾台風のあとで、校舎の瓦は吹き飛ばされてその後始末の年であった。その始末を学区民(PTA)が交替で修理片づけをしてしまった。校舎建築(体育館・鉄筋校舎1棟)を高岡町時代に関係したが、工事中、町会議員・教育委員やPTA役員が、腰弁当で学校へ出てきて、監督・手伝いをされる。業者は釘一本もごまかしができない。 学校が創立した時、校庭緑化は各字が競争して字ごとに庭木を持ち寄って植えた。計画した当時の加藤倉次郎校長もえらい先生だが、協力した高岡町民の愛校心は、実に向挙げたもので頭の下がる思いである。当時のPTA会長は協会議員が互選される。会長になると議会の中で文教委員長になる。だから文教予算は高岡中学校が優先される。それだけに文教委員は学校のことをよく知っているし、学校のことにくちばしを入れて、うるっさいこともあったが、熱心なことにはほとほと感心をした。このことは他校へ行ってみてよくわかった。 私がお世話になった当時の高岡区民は、一町一校の高岡中学校を大切にするとともに、高岡の先生を実に大事にし、また真から尊敬してもらえた。私は高中教頭時代に大校長の飯田・神谷両校長に受けたご恩と、学区に皆さんの愛情と、一緒に勤めさせていただいた100名以上の先生方の協力に心から感謝しています。 「ふくれあがる高岡中学校」 *第8代PTA会長 豊田市も上郷、高岡、高橋、猿投、松平の合併により、県下にもまれにみる新興都市に発展し、トヨタ関連産業の発展とともに人口の増加も目ざましくなってきました。 学校も昭和46年現在、中学校11校、小学校、幼稚園を含め57校となり、過去5年間の学級増は、小学校92、中学校5、合計97で、特別教室は普通教室に変わり、プレハブの仮校舎も珍しくなかった。なお昭和50年には学級増加数も小学校224、中学校64、合計288が予想され、施設不足が深刻化しておりました。 高岡中学校も創立25周年を迎えた昭和46年の生徒数は1,132人となり、学級数も26学級とふくれあがり、市内中学校の最大規模となり、5年後には1,500人が見込まれるようになり、すでに竹村方面(今の竜神中学校)に建設が計画されておりました。 このような時代のため、特別教室は全部普通教室に使われ、技術棟もプールの南側にあるブタ小屋と呼ばれ、夏は暑苦しく、冬はすき間風に震えながら勉強する様子を見る時、あまりにも哀れさを感じさせられました。 豊田市の財政も学校関係に追い回される時とは思いましたが、再三の陳情により、北側の三角運動場(当時はテニスコート)に鉄骨の技術教室(昭和47年4月完成)を建設する運びとなりました。当初の計画は敷地が狭いので2階建てを設計しましたが、予算の関係で将来は2階をつなげる構造(現在もそのまま)で完成し、明るいのびのびとした教室で勉強することができるようになりました。 その年の11月、PTA役員による優良校視察を計画し、鳳来中学校を視察しました。ここは豊田市とは全く反対の環境地帯で、年々過疎化による生徒数は減少し、新しく新設された学校は、規模設備ともに県下まれに見る施設で、遠距離生徒の宿泊設備まで完備されておりますが、半分以上は使われておらず、豊田市では想像もつかないうらやましさと、世の中の矛盾を感じました。 *『高岡中学校 創立30周年記念誌』より ▶ 掲載写真の紹介 ・上…卒業記念・掲揚塔除幕 ・中…卒業記念・掲揚塔(美しくひるがえる旗) ・下…優勝盾・西三新人(女子ハンド) | 
 | |||||